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03 生涯の師 〜後藤先生の教室へ 相当高額だった月謝〜

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 テレビのない時代は舞踊や寄席などの芸能を舞台で見るのが楽しみでした。芸能好きな母はきれいな着物姿でお重を抱えては、家の近くにあった「菊田劇場」という桟敷のある劇場や産業会館の舞台を見によく通っていました。


 とりわけ高松舞踊団や、モダンダンスの先駆者・石井漠、その弟子の崔承喜(さいしょうき)などの舞踊団がやって来ると、必ず私を連れて行ったものです。


 自分の娘をあんな舞台に立たせたいと思ったのかどうか、母は私が5歳の1932(昭和7)年、「後藤澄夫舞踊研究所」という西洋舞踊の教室に連れて行きました。このことが私の人生を決めることになりました。


 ですから、生涯の師匠に一人挙げるとしたら、迷うことなく後藤澄夫先生ですね。私は先生がお亡くなりになってから今日まで、お墓参りを欠かした年はありません。


  モダンでおしゃれ

 後藤先生は、当時はほとんど見掛けないモダンな長髪に仕立ての良いスーツ、派手めなネクタイと、そのまま現代に現れてもまったく違和感のないような方でした。昭和初期の長野では、相当に目立つ格好をされていたと思います。


 もともとは須坂の小学校代用教員だったそうです。舞踊団の公演を見に行くうちに興味を持ち、東京で開催される西洋舞踊の講習会に参加するようになり、高じて教室を始めたのでした。


 当時のレッスンでは、レコード代や蓄音機の針代だけでも結構な出費だったはずです。後に私自身が教室を始めるようになってから、このことに気付き、母が払ったお月謝や舞台費用は相当高額だったのだと思い至りました。


 というのは、お稽古事といえば日本舞踊やお茶やお琴が主流であったころ、西洋舞踊を習う生徒は少なく、15人程度を相手に先生は生計を立てていたわけです。今ではとても考えられないことです。確かに一緒に習っている子は会社の社長や大きな商店とか、市内でも潤っている家庭の子女たちでした。


 地主だった倉島家は、賃貸の長屋を何軒も持っていました。私たち家族が住む家の隣もその一つだったのですが、そのお隣さんがよく「おしょうゆを貸してください」「お米を貸してください」と母を頼っていたことが記憶にあります。大学へ行っている息子さんへの仕送りで生活が大変だったそうです。我が家はそういうこともなく、私は恵まれた子ども時代を過ごしていました。


  舞台の魅力を知る

 舞踊を始めた翌年、山王尋常小学校(現山王小)に入学しました。後藤先生のレッスンは毎日ありましたから、学校からお稽古場を経由して帰宅するという日々でした。今の信濃毎日新聞社の隣、県の合同庁舎になっている所に産業会館があり、そこを会場にして舞踊の発表会も行われました。


 私も舞台に立ち、その魅力を知ることになりました。当時、まだ今のような品質の化粧品がありませんから、厚く真っ白におしろいを塗り、真っ赤な口紅をつけました。おしゃれが好きだった私はそれが何だか自慢で、わざと首に白いおしろいや口紅の跡を残したまま翌日、登校しました。それで上級生から「裸踊り」などとからかわれました。

(聞き書き・北原広子)

(2011年11月12日号掲載)


=写真=山王尋常小学校入学時の私

 
倉島照代さん