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04 若里へ転地 〜長兄が結核を患う 山王小へはバス通学〜

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 信濃銀行の支店長だった父には、毎朝人力車のお迎えがありました。懐中時計で時間を確かめていた出勤前の父の姿をよく覚えています。人力車が家の前に到着すると、スーツに山高帽子、ステッキを持って出勤していくのでした。大正時代の名残をとどめる紳士といった風情でしたね。


 そんな父の帰宅を、母は夜中の12時過ぎまで、きちんとした着物姿で待っていました。部下を引き連れて帰宅し「酒を出せ」と騒ぐこともありました。四つ上の姉がまだ存命だったころ語っていた父の思い出話の中に、お酒にまつわるエピソードがありました。


 父の銀行が破たん

 南県町の自宅近くに教会があり、姉がそこの奉仕活動に参加していました。年末助け合いで「酒飲むな、酒飲むな」と道行く人々に呼び掛けるのですが、そこを父が「酒出せ」と言いながら通り過ぎたそうで、姉と笑い合ったものです。大きな戦争に突き進んでいることが目に見える前の、まだ少しのんきな時代だったのでしょう。


 信濃銀行は間もなく経営破たんし、1931(昭和6)年に八十二銀行が誕生しました。自殺者も出て破たん時の整理が大変だったと後に聞きましたが、それで家族が困ったような記憶はありません。


 後藤澄夫先生の下で5歳から西洋舞踊を学んでいた私は、発表会の舞台に立つようになりました。小学2年だった34年は、産業会館で「君が代行進曲」「たぬき音頭」を踊り、翌年は「魔法の林檎」という児童劇を演じ、満員の観客から拍手を浴びました。


 そして小学4年だった36年、家族は若里に引っ越すことになりました。旧制長野中学(現長野高校)に通っていた一番上の兄が結核を患って転地療養が必要になり、1000平方メートル(300坪)ほどの敷地がある古い家を買ったのです。当時の若里は農村で、へき地に来たものだと感じました。


 私は転校せずに、そのまま山王小学校に通いました。バス通学です。停留所に立っていると「お嬢さま」などと声を掛けられたものです。当時は学校間の格差も大きく、親としても町場の子の多い山王小に行かせたかったのだと思います。


 しばらくすると、父は長野県醸造試験場の中にある酒造組合に理事として勤務するようになりました。お付き合いは造り酒屋のだんなさん方、つまりお金持ち階級です。そのためかどうか、農家ばかりの近所付き合いを好まず、その点で母をけん制していることを子どもの私も感じました。でも、母はすごかったですね。表向きは逆らったりせず適当にかわしていましたが、行動は筋金入りでした。


 母は野良仕事も

 それまで絹や金紗の着物で劇場通いをしていたのに、木綿の着物に着替えて野良仕事を始めたのです。しかも、ちょっとした畑仕事なんてものじゃありません。アシの生い茂る河原の開墾からです。家が犀川の土手沿いにあり、土手の向こうが河原ですから、そこを開墾したわけです。


 父がいくら見えを張ったところで、食べ盛りの5人の子どものおなかを満たすことはできません。母は父の反対をよそに、一人で食糧作りに乗り出したのでした。当然、農家の方々から教えてもらわなければなりません。家には近所の人たちがよく出入りするようになりましたが、日曜日など、たまに父が家にいるとぱったり誰も来なくなるのでした。

(聞き書き・北原広子)

(2011年11月19日号掲載)


=写真=小学3年の発表会で仲間と「魔法の林檎」を踊る

 
倉島照代さん