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23 唐崎城(千曲市雨宮)〜南北朝時代の築城 小規模だが原形保持〜

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 千曲市雨宮集落の東方に位置し、妻女山がある鞍骨山系から西方に延びる尾根の先端にあたる唐崎山に築かれた山城である。甲越の川中島合戦の折、妻女山に布陣した上杉軍が深夜に粛々と千曲川を渡河し、八幡原に向かったという雨宮の渡し場が近くにあり、頼山陽の「鞭声(べんせい)粛々...」の詩碑が立っている。


 江戸時代中頃、松代藩は千曲川の水害を避けるため人為的に流路を変える大改修をしたが、それ以前は唐崎山の裾近くを流れており、唐崎城を守備する天然の水堀の役目を果たしていた。


 現在、渡し場周辺は田園地帯となっているが、わずかに河床らしき低地が認められる。


 松代を経由して谷街道は唐崎山の麓を通過しているが、この街道沿いにある日吉神社の脇に登山口がある。秋だったため落葉が吹きだまりとなって歩道を埋め尽くし、蛇行しながら城跡に続いていた。急斜面を一気に登ると、すっかり雪化粧した白馬三山がくっきりと宙に浮いて見える。


 城跡までの所要時間は約30分。本郭を腰曲輪で防護し、前後に郭跡の平場が幾段も確認できる。城跡は小規模ではあるが、原形をとどめている貴重な山城といえる。


 この城の歴史は古く、南北朝時代の築城といわれているが、戦国期の城主は雨宮集落に根拠をおいた雨宮摂津守である。雨宮氏は村上氏の出身であり、1548(天文17)年、武田氏と村上氏が激突した上田原の戦いでは、村上方の武将に雨宮刑部という名前が見られ、この戦いで戦死している。


 雨宮氏に関しては歴史上の記録が少ない。北信地方の武士たちの多くが上杉氏の家臣となったが、雨宮氏の名は見られず、当時、武田方に就いていた隣接する清野氏によって滅ぼされたのではないかという説もある。


 唐崎山は赤松と広葉樹の混交林に覆われているが、城跡周辺はナラ、クヌギなどの雑木が多く、樹間には桜の幼木が植樹されていて将来が楽しみである。

(2011年11月5日号掲載)


=写真=唐崎山の山頂に城跡

 
続・山城紀行