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37 「死」とどう向き合うか9

 前回は、岩波書店の創業者であり、諏訪出身の岩波茂雄とその母うたについて書いた。今回はその続きである。


 この母、ありてこそ

 茂雄は一高生であった23歳の夏、懊悩の末、野尻湖の無人の琵琶島に40日間、一人で籠もったことがある。その剛毅不屈の青年茂雄が島での生活中、もっとも劇的な場面であったと告白したのは、息子を案じた母うたが諏訪の地から、予告なしに風雨を衝いて島を訪ねて来たことであったという。


 母うたはいま野尻湖にあって、失意と絶望の淵にある息子の元へいかなる道筋をたどって赴いたのか。中央線はまだ開通していなかった。諏訪大社上社本宮近くの中洲村中金子の自宅(現諏訪市、茂雄の生家跡はいま更地になっていて、茂雄が愛したというワーズワースの詩の一節「低処高思(ていしょこうし=低く暮らして高く思う)」の碑が立つのみ)を早朝出立し、甲州道中を下諏訪宿に至り、そこからは中山道をたどって海抜1650メートルの和田峠を踏み越えて和田宿へ。長久保宿からは丸子への道をとり、依田川に沿って下り千曲川を渡って大屋へ。この間およそ50余キロ。


 しかも7月23日という炎暑の季節に、乗り物には頼らず、和田という険難の峠を越え、50余キロというのは容易ならざる道程(みちのり)だ。おそらくは、ひと足ひと足といえども、髪を振り乱してひた走るごとくであったに相違ない。


 大屋駅からは、すでに開通していた信越線で柏原に向かった。おそらく初めて汽車に乗ったのだろうと思う。柏原駅から緩やかに下る北国街道は野尻宿を経て、越後に向かう道だ。私がこの道を初めて歩いたのは1953(昭和28)年であったが、沿道の家並みは全て茅屋根で、街道時代の名残が至るところにあった。


 茂雄の母うたがこの道を野尻湖畔に向かったのは、それより54年前のこと。時すでに灯刻。まだ電灯がともらない時代だから、煤けた障子に映る囲炉裏の火が、燃え盛ったり沈んだりしていたのだろうか。うたが湖畔に立ったときは風雨さえ激しく、船頭の影はどこにもなかったのだが、うたの茂雄へのひたすらなる思いは、尋ね当てた船頭の心を動かし、琵琶島に向かって舟を出させたのだった。


 切なるいましめに従う

 その後、茂雄が「...ふと雨戸の隙間がボーッと明るくなったと思うと、黒い人影が入って来ました。驚いて起き上がると、それはびしょぬれになった母でした...」と語り「もっとも劇的な場面」であったことは、すでに前号の36で述べた。


 茂雄は揺るぎない母の力の前に深く低頭した。そして、こうも述懐する。

 ...母が郷里から私の身を案じて訪ねてきたのである。風雨はげしきゆえ舟の出ないといふのを、無理に頼んできたとのことである。母は自分の世を捨てる不心得を懇々とさとし、遂に一夜を語り明かした。島に於ける私の生活は四十日も続いて少しも飽くことを知らなかったが、母の切なるいましめに従ひ、心ならずも再び都に出て学業に就くことにした。島を去るときには、この愛着の地と別れるのを惜んで、限りなく泣けて涙をとめることが出来なかった...。人生とは何ぞや、我は何処より来りて何処へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悶時代であった。立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするを恥ぢ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには、死を厭はずといふ時代であった...。(「政界往来」)


 うたが野尻湖に茂雄を訪ねたのは、03(明治36)年7月13日、41歳の時のことだった。

 岩波茂雄が、世にいわれる岩波文化を築き上げた底力は、すでにこの時に胚胎していたのである。

(2011年11月5日号掲載)

 
美しい晩年