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05 偉大な母 〜女手一つで田畑開墾 5人の子食べさせる〜

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 クラシックバレエが長野で一般に知られる前から、私は「長野バレエ団」の前身となる教室を主宰してきました。高等女学校の同級生の多くは良家へ嫁いだ時代に生まれ育った女が、一人でバレエ団を率いてきたのです。現代の女性が職業を持つのとはまた違う困難がありました。それでも、ここまでやってこられたのには、母の影響が大きかったと思います。


 若里に引っ越してからの母の活躍ぶりは見事でした。まず河原のアシを抜き、ふるいで石を取り除き、開墾して田んぼや畑にしてしまいました。見栄っ張りの父が手伝うわけはなく、女手一つでした。


 大雨の中立ちつくす

 ところが河原ですから、大雨が降ると流されてしまいます。蓑をかぶって真っ暗な土手の上に立ち、苦労して開墾した畑がごうごうと流される様子を見ていた母の後ろ姿は忘れられません。泣いていたのでしょうか。あるいは次への闘志を燃やしていたのかもしれません。後に自分がバレエの仕事をするようになって困難に遭ったとき、どこかでそんな母の姿をよりどころにしていたように思います。


 母が好きで植えてあったバラもいつの間にか庭からなくなり、キュウリやトマトに替わっていました。そのうちに鶏や豚まで飼い始めました。どこからか残飯を調達して餌にしていたようです。父がそんなことを許すわけがありませんから、一応「はい、はい」とだけ言うのですが、従うわけではありませんでした。普通の女ではありませんね。


 ヤギだったか豚だったかを殺して塩漬けにしたのも驚きでした。さすがに近所の人と相談したのでしょうけれど、戦時中の食糧統制の時代のことですから勇気のいることです。5人の子に食べさせるための母の様々な工夫のおかげで、私たちきょうだいは食糧難の時代にもひもじい思いをせずに育ちました。


 母は勢国堂というパン屋さんに3カ月くらい修業に行き、自分でパンやお菓子を作って売っていたこともあります。まだ小麦粉が入手できたころですね。作るそばから子どもたちが食べてしまうので、売る分は少なくなってしまいましたけれど...。大きな缶から手づかみで取り出し、好きなだけ食べていたことを覚えています。


 母の場合、方法といい規模といい、主婦の発想というよりは事業家のそれでしたね。さすが鉱山主の子だったんだと、私自身も事業をするようになって感じるようになりました。


 合図でレッスンへ

 私が母を手伝ったのは、開墾時の石ふるいくらいでした。日曜日の午前中に少し手伝うと、母が「照代や、○○が足りないから町へ買物に行ってきてちょうだい」と言うのでした。舞踊のレッスンに行っていい、という合図でした。父が「河原乞食」だと反対していましたから、母が強い人でなければ私が西洋舞踊を続けられたはずがありません。お月謝や舞台発表用の費用も、父に内緒で出してくれたのでしょう。


 農作業を始める前の母は、細い毛糸で豪華なフリルいっぱいの服をよく作ってくれたものでした。毛糸は編み直しができるので、デザインを変えてはハイカラに仕立て、緑や赤の色も形もおしゃれで、それはそれは得意な気分でした。若里に移住してから、そんな母が一変してしまいました。

(聞き書き・北原広子)

(2011年11月26日号掲載)


=写真=父と母


 
倉島照代さん