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06 長野高女へ 〜舞踊やめて猛勉強 遅刻早退欠課常習に〜

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 好きな日課だった踊りのレッスンを中断した時期がありました。小学6年生のときです。当時、1クラスの人数は60人くらいで、激しい受験競争があり、若くて意欲にあふれた担任教師は宿題を山のように出し、また日曜日は受験する生徒を集めて自宅で指導していました。


 受験組だった私もその対象だったのですが、舞踊のお稽古があるので参加できませんでした。後藤先生の教室は県町の犀北館近くに移転しており、学校帰りに直接お稽古に行ってから帰宅する日々でした。


先生にダンス怒られ

 私は学校の先生に呼びつけられ「ダンスを習っているようだが、今の時代に道草するとは何事か」と怒られました。1938(昭和13)年といえば、挙国一致で戦時体制に入っていく時期でしたから、このような言い方だったのでしょうが、高等女学校への進学者をなるべく多く出したいという理由も大きかったと思います。


 学校の先生に怒られ、私はあっさり舞踊のお稽古をやめてしまい、本格的な受験態勢に入りました。

 もっとも勉強はよくやっていました。お稽古から戻り夕ご飯を食べると、いったん寝て夜中の1時に父に起こしてもらうのが習慣でした。父は武者小路実篤や夏目漱石の全集など膨大な蔵書から何か選んでは毎晩読書をしていました。


 私は1時から猛勉強を始めるのです。女が勉強するのに反対の父は、いつまでも起きている私に「寝ろ!」とげんこつで頭をたたくので、朝の6時から1時間ほど寝て登校しました。父は学校に「宿題を出さないでくれ」と進言に行ったくらいでした。


 母同様に私も、父の方針におとなしく従う子どもではありませんでしたから、踊りをやめると日曜日の特別授業の仲間に加わり、県立長野高等女学校に受かるのは当たり前というような気持ちで入学しました。


 姉が同じ長野高女でバスケットの選手として活躍しており、有名で人気があり、その妹ということで私も最初から上級生たちに注目されていました。でも私は体育が苦手、裁縫も嫌い、絵画や音楽も苦手で、他教科の成績は良かったのに、これらは丙でした。つまりバレエに関係する科目は全部駄目だったわけです。


休むと喜んだ父

 加えて、父や兄の肺結核がうつっていたのか、体調のすぐれない日が多くありました。やりたくない事はやらないという私の性格もあり、「体操だから遅れて行こう」とか「裁縫はおなかが痛いとうそをついて欠課に...」といった具合で、遅刻早退欠課の常習でしたね。


 これは父の教育方針である「女は勉強するな」とぴったりでした。休みたいそぶりを見せると、父は喜んで筆と紙を取り出し「家事事情により...」と学校長宛ての手紙を書いてくれました。


 担任の先生からは「入学試験では5、6番だったのに」とあきれられました。私のような不届きな生徒は2、3人しかいなかったと思います。そういう生徒だけが休憩時間になると体育館に遊びに行き、他の生徒は目の色を変えて勉強していましたね。

(聞き書き・北原広子)

(2011年12月3日号掲載)


=写真=県立長野高等女学校時代の私


 
倉島照代さん