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09 人生の転機 〜工場の食堂借り独立 10年の免状が6年に〜

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 1944(昭和19)年、醸造試験場に転職するための履歴書を出したところ「上手な字を書くね」と褒められました。女学校時代の友人は書道の石黒先生の熱心な指導のおかげで皆さん字が上手になり、3人が書道の先生になっていました。私もつられて上達していたのでしょうか。


 私の所属は醤油の検査所でした。上司は県内各地を回って醤油にまぜ物などがないか検査する技師。私の役目は醤油瓶を洗ったり荷作りをしたり単調でしたが「てる、てる」とかわいがってもらい、楽しい職場でした。


 薬を扱うインテリが集まっていたせいか、終戦直後イザという時の自殺用に毒薬を渡された記憶はありますが、日常生活では戦争が別世界に感じるような雰囲気で、今だからこそ言えるようなことがいろいろありましたね。


ひもじい思いせず

 酒造組合理事の父が酒屋さんからお酒や酒かす、コーリャンを頂くので、家にはコーリャンが山のように積んでありました。米にまぜて炊くと、コーリャンが上の方に来るんです。下にたまった白米を父のために盛り、あとはまぜて食べたのですが、皆がひもじい中、わが家は恵まれていました。


 いわゆる上の方とのつながりがあり、マッチ、手袋、長靴などは、書類を1枚地方事務所に持っていくと、ぽんと捺印してくれ現物が手に入るのでした。 


 終戦後、家のすぐ近くにあった鐘紡の社宅が進駐軍の宿舎になりました。女性を乗せた米兵のジープが往来し、井戸端会議で「娘がチョコレートをもらった」「パンをもらったようだ」など、進駐軍や"パンパン"(進駐軍兵士の相手をする女性)の話題で持ちきりでした。


 そんなころ、疎開で近所に住んでいた岡幸江ちゃんという5歳の女の子に「お姉ちゃん、踊り教えて」と頼まれたのです。私は19歳でした。母も大変に乗り気で、家の向かい側にあった工場の食堂を借りて教えることにしました。これが、今日も続く私のバレエ人生への大きな転機でした。醸造試験場での仕事は、身の置きどころに困るくらい暇で辞めていました。


 気になったのは、外地から戻られて教室を復活させていた後藤先生のことでした。私が自分で教えることを伝えると、あまりいい顔はされなかったのですが、「田舎だから」と承知してくださいました。若里だったのが幸いでした。


記念写真見て驚く

 独立に当たりこれまでの練習の証しが欲しいと思い、先生に「10年間のお免状を下さい」とお願いしましたら、なんと6年間の免状をくれたのです。5歳からですから10年のはずなのに、と大いに不満でしたが、この免状を持って撮影した記念写真を見てびっくり。足が曲がっているではありませんか。


 私は踊りが大好きで、うれしいにつけ、悲しいにつけ、曲を思い浮かべながら踊ることが生きる糧のようになっていました。でも、上手ではなかったので、後輩に追い越され、舞台ではいつも後ろで踊る役ばかりでした。


 母が一度だけ先生にそのことを言ったところ、与えられたのが長い着物を着て踊る役。足の形が悪かったせいだったんだと、そのとき気付きました。お免状が6年間だけだった理由も、これかと思いました。足をちゃんと直してくれなかった先生も先生だと悲しい思いがしました。その写真は足の部分を切り落として保存してあります。

(聞き書き・北原広子)

(2011年12月24日号掲載)


=写真=後藤先生から頂いた6年の修了証書を手にする私

 
倉島照代さん