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07 女学校生活 〜戦時下で勤労奉仕も 警戒しつつ西洋舞踊〜

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 女学校に入学した1939(昭和14)年の1学期が終わろうとする7月21日、校舎が焼失してしまいました。ちょうど通知表が出る直前のことで、生徒の放火では、といったうわさも出たように思いますが、原因は明らかにされませんでした。


 火事で焼けたため、最初の通知表はなし。このとき私は、イケメンで皆の憧れの的だった担任の宮坂先生に特別に呼ばれました。丙があったせいでしょうか。もっと頑張るよう、お説教されました。


裁縫は両袖だけ提出

 当時、裁縫の授業は1学期(4カ月間)で着物を仕立てるのですが、母親に縫ってもらったり、中には仕立て屋に注文して完璧な出来栄えの着物を提出する生徒もいました。私は自分で一生懸命に縫い上げましたが、体が弱かったため両袖だけしか仕上げることができないまま提出し、丙の成績でした。


 戦後、教育も民主化されてからの同窓会の席上で、家庭科の竹内先生が「あなたの考え方が正しかった」と私に手をついて謝ってくれました。結果だけで評価したことへの遺憾の念だったのでしょう。


 新校舎が完成したのは41年5月。この年の12月8日、太平洋戦争が始まりました。私は英語科の3年生でした。当時の県立長野高女は、3年次で英語科と裁縫科に進路が分かれており、私は当然のように敵国語である英語科に進んでいました。大国のアメリカと戦争なんて、という矛盾は感じましたが、乙女心は純粋です。深い疑問は抱きませんでした。


 この年の担任は、京都出身で西田哲学が専門と言われていた修身の釘宮先生でした。この先生から朝礼で繰り返し「西を向いて東と云わるるとも、その言を疑うこと勿れ」と教えられていたものですから、今も自動的にこの言葉が浮かんできます。 


 勤労奉仕は、母袋にあった飛行場辺りの出征兵士を出した農家のお手伝いでした。いったん登校し、今の西高になっている場所から歩くのですから、かなり遠く感じましたね。お昼にお芋などをいただいたと思います。お国のため、という気持ちで燃えていました。


 でも、歩行訓練と称して、校長先生を先頭に毎日1時間、学校の周囲を回る活動は、体の弱いことを口実にして休んでいましたし、掃除もしませんでした。帰りたくなると裏の山沿いの方から抜け出したり、かなりやりたい放題の女学校生活だったように思います。


楽しみだった給食

 戦時中は給食もありました。全員ではなく1クラス2、3人の、栄養不足や体の弱い生徒のためだったと思います。私も体の弱い生徒の中に含まれており、時間になると数十人が一つの教室に集まって給食をいただきました。カレーやシチュー、けんちん汁などのごちそうが出るので楽しみでした。


 受験期に休んでいた踊りのレッスンも、女学校に入って再開しました。ただ、西洋舞踊をやっていることが学校に分かったら即、退学です。後藤先生の教室に入るときは、周囲をキョロキョロ見回してからサッと入りました。ひとつ上に、日本舞踊の花柳萬利助さんがいらっしゃいましたね。彼女は品行方正で先生の信頼も厚く、堂々と日本舞踊を習っていて私とは対照的でした。


 小学校では憲兵に目を付けられたのを、担任の矢崎孟伯先生が掛け合って守ってくれたものでしたが、女学校になったら憲兵は来なくなりました。

(聞き書き・北原広子)

(2011年12月10日号掲載)


=写真=上級生と一緒に(左が私)


 
倉島照代さん