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08 女学校卒業 〜後藤先生は支那へ 貯金局に就職したが〜

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 私が女学校4年だった1942(昭和17)年、後藤澄夫先生が支那(現・中華人民共和国)へ旅立つことになりました。日本軍を慰問するためでした。それを知ったとき私は、長野にいられるような人ではないから無理もないと感じました。


 戦時下にもかかわらず後藤先生は相変わらずの長髪に、当時としては珍しくラフに着崩したスーツ姿で、田舎の町では誰もがびっくりするような格好を通していました。顔立ちも派手ですから一層目立ち、一緒に歩くのが気恥ずかしかったのを覚えています。


 慰問名目で追放?

 風紀を乱すと目を付けられて当然です。慰問団の名目で外地に追放されたのではないでしょうか。先生の送別会は、南県町の「やぶそば店」で行いました。そしてこの翌年3月、私は女学校を卒業しました。


 卒業式で驚いたのは、クラスの半分もの生徒が欠席したことです。何があったのかと思いましたら、皆さん、大学受験で東京へ行っているということでした。


 わが家は東京に親戚があるわけでも、親が高学歴なわけでも、女に学問を奨励するような家風でもなく、私としては東京への大学進学を考えたこともありませんでした。女学校で一緒に遊んでいた友達とも大学の話をした覚えはありませんでした。


 一方、女性でも大学進学は当然という家庭が多かったのでしょう。確かに、私たち一部の生徒が休み時間に体育館で遊んでいても、他の人たちは10分、15分を惜しんで、それこそ目の色を変えて勉強していました。卒業式でその理由が納得できました。私のクラスの約半分が日本女子大に進学し、そのほかの名門大学に進んだ人もいたと思います。


 あのときのショックは今も鮮明ですが、少々不思議なのは、人々が東京から長野に疎開してくる時代に、よくもまあ空襲が心配な東京へ行ったものだということです。戦況が不利という情報が全く届いていなかったのかもしれません。


 卒業後、私は長野地方貯金局に就職しました。当時の一番人気は銀行。まず、第一勧業銀行で、次が富士銀行、八十二銀行でした。私も銀行を志したのですが、体が弱く、そのため女学校の内申書も良くなかったので諦めました。貯金局には姉がすでに就職しており、有利だったのです。


 数字と計算は上達

 そのころの貯金局は、まだ男性を含めて中学卒業の人が圧倒的に多く、女学校出は数人だったと思います。女学校に引き続き、ここでも美人の姉の影響は大きく「倉島家の美人姉妹」などと言う人もいました。仕事は、100枚ずつ束ねた伝票の数字をそろばんで入れて、全部ぴたっと合わせることでした。毎日毎日、そればっかり。おかげで数字が上手に書けるようになり、計算とそろばんも上達して、後々まで役に立ったのはありがたかったですね。


 金額は覚えていませんが、お給料も良かったです。親孝行が修身の授業でみっちり仕込まれて身に染み込んでいますから、今の価値で3万円くらいを家に入れてましたが、なお十分余裕がありました。局内で注文できたお弁当もおいしかったです。


 しかし、企画性とか創造性とか刺激とは縁遠い作業ばかりでした。青春に燃えていた私は飽き足らず11カ月で辞め、父が県酒造組合の理事だったのでツテのあった醸造試験場内の醤油の検査所に転職しました。

(聞き書き・北原広子)

(2011年12月17日号掲載)


=写真=恩師の後藤澄夫先生


 
倉島照代さん