
「田中角栄首相が長野・上田両市長選応援の折、奥田神社に参拝したいので、お手配願う」-。1973年(昭和48)11月初め、首相官邸からの突然の連絡で須坂市役所は大騒ぎに。「首相と奥田神社、どんな関係か! 参道には緋毛氈(ひもうせん)の準備を」。当時の田中太郎市長の指令に総務課や教育委員会はてんてこ舞い。
東京からの情報をキャッチした県内の新聞・テレビ局も取材を始めたが、背景がさっぱり分からない。
「私邸の通称"目白御殿"は須坂藩・堀家の江戸屋敷だった...」。夕方になって信濃毎日新聞の記者が郷土史家の情報を伝えた。信毎調査部では、江戸切絵図(市街図)が手配された。
田中首相は11月4日、ヘリで長野入り。いきなり予定を変更して善光寺参りに。緋色の袈裟を掛けてもらい、ご満悦。その後、須坂入りし、堀氏代々の藩主を祀る奥田神社の社殿に参拝。「土足のままどうぞ」の声をよそに靴を脱ぎ、参道に敷いた白布を歩んだ。緋毛氈は間に合わなかった。
続いて、市営グラウンドに集まった市民5000人の前で、バラ色の国家構想をぶち上げた。10月の第1次石油ショック対策の緊急立法を1カ月で成立させ、「さすが角さん」と世間をうならせた絶頂期だった。
堀氏は日本の大名族のエリート。源流は徳川家康を支えた三河武士団で、奥三河の奥田が氏神。堀氏が奥田神社を祀るゆえんだ。徳川が最も信頼を寄せた堀氏の郎党は全国各地に転封、一族で閨閥(けいばつ)を広げた。須坂藩・堀氏はルーツが下総(千葉県佐倉)。流れて越後の堀氏から分家した。それから幕末まで、小藩だが14代も続いた名家となった。

幕末に外国奉行になったのは、13代堀直虎(なおとら)という切れ者で先進の洋学者。幕末史では、江戸城の厠で不可解な切腹をしたことで知られる。近年の研究では最後の将軍・徳川慶喜に「殿、国内和平のため切腹を。私も後を追いまする」と意見したが、断られたのが真相という。当時、訳知りの人々は直虎を称賛したことが、英国公使アーネスト・サトウの日誌に記されている。
田中首相の突然の奥田神社訪問は、私邸にある祠の由緒を知り、選挙応援にかこつけて表敬したのが真相だった。
長野入り前々日の11月2日には、全国でトイレットペーパーの買い占め騒ぎが起きた。当時の外相は大平正芳。2月には変動相場制がスタート。都知事は美濃部亮吉。都内から金大中が拉致された...。騒然とした世情がしのばれる。
人間の明暗はあざなえる縄の如し。角栄首相が1年後の11月27日、ロッキード事件で退陣表明をするとは、誰も想像すらできなかった。
(2011年12月17日号掲載)
=写真=堀家代々の藩主を祀る奥田神社