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38 「死」とどう向き合うか10

 小林一茶の句に

・炭くだく手の淋しさよかぼそさよ

・かな釘のやうな手足を秋の風

がある。「炭くだく」からは、薄暗い土間の片隅に置かれた炭俵が見えてくる。そこによろよろしながら近づいていく草履ばきの老人。腰をかがめて錆びた金釘のような指が、炭俵の底に残っている炭を、取り上げようとしているのである。「かな釘のやうな」は痩せ細った形容だという。


 黙ってうなずくしかない自分

 歯が欠けたり、耳が遠くなったり、髪が白くなったり、乏しくなったりするのは序の口。やがては立つも座るもドッコイショ。眼鏡なしでは暮らせなくなる。


 知人が1人減り2人減り、年末には「喪中につき欠礼」が多くなる。気がついたら小学校の同級生の大半がいなくなり、あるかないかの段差でけつまずく。尿意を催したら我慢ができなくなる。便所へ急ぐのだが、途中でお漏らしをする。尿瓶(しびん)が必需品となり、枕元に置くことになる。排尿に勢いがなくなり、たらたらだったりする。


 これ以上書くことは憚(はばか)られ、耳をふさぎたくなるようなことばかりだが、年を取るとはそうなることなのだ。足腰が利かなくなることが否応なしにやってくるのである。「無念遣る方なし」の刃を自らに突き付けねばならぬときがやってくるのだ。


 老醜と老臭ー。何とも目も耳も背けたくなる言葉であるが、甘んじて受け入れなくてはならなくなるのだ。「子どものオシッコは汚くない、老人のオシッコは汚い」と言う。反論の余地はなく、あらためて老いぼれたことに気付かされ、黙って頷くしかない自分をそこに見いだすのである。そうならざるを得なくなることを常日頃から自分に言い聞かせておかなければならないことに気付かされもする。


 名残惜しく思えども  力なくして終わるとき

 親鸞は『軟異抄』でこう語っている。


 なごりおしくおもへども、娑婆(人間が住んでいるこの世、苦しみが多く、忍耐せざるを得ない世界)の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土(ど)へはまいるなり。


 「娑婆の縁つきて」と「ちからなくしてをはるとき」からは、やさしい言葉ながら老境にあって「もはや...」の思いに立ち至ったとき、ずっしりと重くのしかかってくるような思いが伝わってくる。


 「かの土」とは何か、どこか。それはあらゆる動植物が自ら求めて最後に帰っていく、大地という自然を指すのであろう。人が亡くなった時、菩提寺から木の香のする白木の位牌が届く。野辺の送りのとき、喪主がその位牌を持って先頭に立つ。見ると位牌に書かれた戒名の上に「新歸元(しんきげん)」とある。「新しく元に帰る」と読むのであろう。「元」とはどこか。それは土であり、自然の懐である。生きとし生けるものが最後にたどり着く掟(おきて)の場所だ。それでいいのだ。そこが最も自由な安住の地だ。


 話題になった坪内稔典の選著になる『一億人のための辞世の句』から「なるほど」と思った句を拾ってみよう。

・生涯は落葉の如し地に返る(鈴木治子 76歳)

・貧乏も贅沢もして桃の花(稲木款冬子 85歳)

・蜘蛛の囲や破れ繕い繕いて(鈴木忠夫 56歳)

・終(つい)の日はたんぽぽの絮(わた)とぶように(中村啓子 73歳)

・秋(とき)くればバッハを聴いて死ねばよし(中川肇 60歳)

・遺書をかく分別残して菊づくり(笠原俊之助 80歳)

・生きていてよかったけれどもさようなら(犬丸志保 中学3年生)


 この世との決別の「さようなら」は、どうしようもなくやってくる。死のその際まで頭が冴えているという、ご立派な方がおられるようだが、分別朦朧となり、空(くう)を手探りしつつ、枕辺にある人と握手ができて「ありがとう」とひと言でも言えたら、それで十分、スバラシイとも思う。

(2011年11月26日号掲載)


 
美しい晩年