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39 「死」とどう向き合うか 11

 前号では年寄りの切なさやみじめさを、その立場にある人にとっては、溜息が聞こえてくるようなことを、臆面もなく書き連ねてきた。-私自身が老いの真っただ中にあるので書けたのかと思っているのであるが-それにしてもそこには救いがなく、いまにしてなお後味が悪いのである。


 「整えた自分に頼る」しかない

 敬愛する佐橋慶女さんは、こんなことを書いておられる。

 六十歳は七つの束縛からの別れ、解放(会社、肩書、給料をとる義務、会社の人間関係・つきあい、仕事、若さ、美しさ)です。そこから三つの力(自分で考える力、自分で判断する力、行動する力)を持ち、新しい出会いの人生へと旅立つ出発点です。(『禅の友』)

「六十歳」は「定年」あるいは「退職」に、「会社」は「勤め」と置き換えてもよかろうと思う。


 また「三つの力」といっても、その力は定年になると同時に、おのずから湧き出るというものではない。その力はあくまで、個々別々のものだ。定年を"待ってました"とばかりに、堰(せき)を切ったように新しい出会い(世界)が切り開かれる場合もあれば、何もすることがなく、つくねんと座っているだけという場合もあるからだ。


 いずれにしても、若い時から挫折を繰り返しながら培ってきた、潜在的な力によって大きく左右されることは言うまでもない。どっかり座り込んでテレビと仲良くしているだけでは、道は開けないのである。つまるところ、自分に頼るしかないのである。


 善光寺の尼上人だった一条智光さんの言葉を思い出す。

 自分が自分を整え、

 他人に頼らず、整え 

 た自分に頼る。

 足腰立つうち


 「足腰立つうち」は、説明がなくとも素人にもよく分かる言葉だ。なるほどそのとおりだという思いが、素直に伝わってくる。『広辞苑』には「(体を動かす基盤となる)足と腰。比喩的に組織を支える基礎的な活動力」とある。


 ついでに言わせてもらえば、偉人、哲人の言行録の類いには、こうした優しく語り掛けてくる言葉はなさそうだし、釈迦の経典、キリストの聖書、孔子の論語は金言名句に満ちているが、聖人たちもこうしたくだけた形で表現することは苦手のようだ。


 いや、余計なことを書いてしまったが、年寄りにとって「足腰立つうち」ほど納得がいき、実感させられる金言は他に見つからない。老年期を迎える人たちへの警句でもあるようだ。60なり70歳になって「さぁ、老後に備えるぞ」と言ってもそうはいかない。それとなくでもいいのだが、若い時からの蓄積なくしてはということだ。


 壮ニシテ学ベバ老ユ 

 トモ衰エズ

 江戸後期の儒学者、佐藤一斎の訓(おしえ)に

少(わか)クシテ学ベバ 則チ 壮ニシテ為ス有リ

壮ニシテ学ベバ 則チ 老ユトモ衰エズ

老イテ学ベバ 則チ 死ストモ朽チズ

がある。誠に心訓とも言うべきもので、読むたびに背筋が伸び、心が正される。少も、壮も、老も、それぞれ独立してあるものの、無関係に別々のものとしてあるのではなく、高浜虚子の句で知られる


 去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの

のように一つの人生を貫いて連続してあるものだ。肚(はら)が据(すわ)って動ぜず、年を取っても前向きで、自分で考え、判断し、行動する力が備わるのは、何といっても若い時からの修練の賜(たまもの)であろう。


 「何かを始めようとする限り、あなたは大丈夫だ」というが、その源泉(秘訣)となるのは、「気が若い」ということであり、それは日常の過ごし方の蓄積から生まれるものだ。「あなたにとって"今日"という日は一番若い日である」ことを、そして、新しい出発の日であることを、どうぞお忘れなく-。 

(2011年12月10日号掲載)

 
美しい晩年