一、しずかな湖畔の森のかげから
もう起きちゃいかがとカッコーが鳴く
カッコー カッコー
カッコー カッコー カッコー
湖面のきらめきがまぶしい。風に押されてさざ波が、陽光を跳ね返しながら入り江の奥へ奥へと向かっていく。

その行き着く先の岸辺は、大きく弧を描いて緑深い林に包まれている。野尻湖の東側、奥座敷の風情が色濃い。遊覧船の乗り場やナウマンゾウ博物館のある観光の中心、西側とは反対に位置する。
湖上へ突き出た半島状の竜宮崎と寺ケ崎に挟まれた桐久保地区。ここが「しずかな湖畔」発祥の地と知る人はそう多くない。
それどころか作詞者さえ、歌唱集でもほとんど「不詳」扱いにされている。どこで、誰が作ったのか定かでないというのだろうか。
夏の林間学校などで必ずといっていいほど歌われた。ハイキングでも好んで口ずさまれる。親しまれているのに、これは不思議だ。
野尻湖をめぐる人や風物をエッセー風につづった『野尻湖物語』のページをめくっているときだった。「静かな湖畔」と題した一項に、目がくぎ付けになる。
そこには、作詞者の名前が登場するだけでなく、作詞の舞台裏が詳しく描かれている。なるほどそういうことだったのか、一気にもやもやが吹っ切れた。
要約するとこうだ。

1932(昭和7)年のこと。湖畔の桐久保に東京※YMCAが、青少年のためのキャンプ場を設けた。
それから3年。35年の夏、一人の青年がリーダーとして野尻湖キャンプに加わる。慶応大学法学部を卒業し、紡績会社への就職を断って牧師の道を選んだ山北多喜彦だ。
彼はその春、やはりクリスチャンで6歳年下の小平恵美子と婚約したばかりだった。5週間のキャンプ中、東京の婚約者が恋しくてならない。夜ごとランプの下で手紙を書き、送った。8月10日消印の一通にこうある。
郭公がしきりにないてゐます。こんな詞がうかんできました。"静かな湖畔の森の蔭から もうおきちゃいかがと郭公が呼ぶ。カッコー、カッコー、カッコ カッコ カッコ" これにいい曲をはめてみませう〉
「信濃町文化によるふる里おこしの会」発行『野尻湖物語』の著者、新堀那司さんも、長らく東京YMCAとキャンプ場営業に関わった。先輩牧師、山北への尊敬と敬愛が厚い。
恵美子夫人との間に1男3女に恵まれた山北牧師は68年、60歳で亡くなった。それから14年後、遺品を整理していた夫人が、婚約当時の手紙を見つけたのだ。
82年8月11日付朝日新聞は「湖畔のカッコー 身元はっきり 作詞者は山北多喜彦さん」と大きく伝えた。
それでも、今なお「作詞者不詳」の扱いがされがちなのは、遺族があえて著作権にこだわらなかったからだ。歌い継がれるだけで満足-。爽やかな対応に頭が下がる。
若い婚約者二人を仲立ちとして「しずかな湖畔」は生まれた。愛の共鳴に思いをめぐらせながら湖の外周を歩く。今は人の声一つしない。カッコウも鳴かない。
見下ろす湖水に山影だけが映り、青く深くどこまでも澄んでいた。
(2012年1月1日掲載)
[はなじま・たかはる]1939年、静岡県森町生まれ。62年、信濃毎日新聞社入社。80年から1面コラム「斜面」を25年間担当。2005年、常務取締役論説主幹を退任。八十二文化財団の機関誌『地域文化』に「碑文は語る」を執筆中。
写真=桐久保地区からの野尻湖
〔※YMCA〕キリスト教青年会を意味する世界的な青年団体。日本では1880年に東京で結成された。