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10 舞踊研究所 〜近所の子らを相手に バレエへの転向決意〜

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 1946(昭和21)年から「ゆりかご舞踊研究所」として踊りを教え始めると、近所の子どもたちが次々と15人ほども集まってきました。自分で独立したのに後藤澄夫先生と同じ踊りを教えるのでは先生に対して申し訳ないという思いから、私は努めて違うスタイルにしました。


 後藤先生はレコード音楽でお稽古をしていたので、私はタンバリンと木琴で拍子を取りました。これだとレコード代も針代もかかりませんから、一石二鳥でもありました。幼稚園や小学校低学年の素直な子どもたちばかりですから、教えたことがすぐ身に付き、見る見る上手になります。それがうれしくて夢中でレッスンしていましたね。


 舞台衣装も自分で

 すると文化祭や慰問団から出演依頼が舞い込むようになりました。どういう経緯か覚えていませんが、戦時中に使用していた落下傘の生地がたくさん手に入り、自分でミシンを踏んでは舞台発表用の衣装を作ったものです。ちょうど私が踊りの教室を始めたのと同じころ、岡久子先生が長野ドレスメーカー研究所を設立し、私も岡先生から洋裁を学びました。


 こうして3年ほど過ぎたころ、私たちの踊りを見て「もっと世界に通用する踊りをやったらどうですか」とアドバイスする人がありました。林廣吉さんで、私が踊りを一緒に習っていた林陽子さんのお父さんでした。


 元朝日新聞記者の林さんは、戦時中の上海で「上海バレエリュッス」というバレエ団で踊っていた小牧正英さんという、戦後の日本のバレエを牽引していった天才的ダンサーと知り合い、故郷の長野市に戻ると、お嬢さんの陽子さんを小牧先生のバレエ団に入れました。


  林さんが転向を助言

 林さんは日本以外で通用しない創作舞踊では将来性がないことをご存じで、私に世界共通のクラシックバレエへの転向を勧めたのでした。


 実は「バレエ」という言葉自体は終戦のころからちらほら耳にするようになっていました。後藤先生もご存じだったはずだと思います。でも先生は世界で通用するものを取り入れようとはせず、生徒にも情報を教えず自分のスタイルを守ろうとしたのか、長野の有力者との関係を深める方向で「河童クラブ」という会をつくり、政治家や経済界との結び付きを強めていたのです。楽しい人でしたから人気がありました。ちなみに私は嫌われたようで、この会に誘われませんでした。


 小牧先生が中心になった東京バレエ団の結成も1946年。東京ではバレエ人気が沸騰していたにもかかわらず、長野で相変わらず創作舞踊に励んでいた期間を惜しく感じました。林さんからバレエの話を聞き「小牧先生を紹介する」と言われたときは、新しい世界が開けることを感じ胸が躍るようで迷わずお願いしました。


 一生懸命お稽古して上達した子どもたちが世界に羽ばたくことができたら、どんなに素晴らしいでしょう。向上心が強い私にとって、チャンスがあるのに現状にとどまっている理由は何もありませんでした。


 それに、バレエという、長野では未知のことをするのであれば、後藤先生への気遣いも軽くなります。とにかく自分の目でバレエというものを見たい。そう思ってバレエ公演を見に何回も東京に行きました。

(聞き書き・北原広子)

(2012年1月1日号掲載)


=写真=「ゆりかご舞踊研究所」を始めたころ(中央が私)


 
倉島照代さん