「由緒を誇る風間神社をお忘れではないか...」。以前から読者のリクエストを頂いていた。
訪ねてみて、豪壮な本殿・拝殿に恐縮した。平成になって、古来のスタイルそのままに改装した。屋根は善光寺を模したといわれるが、草創は善光寺よりずっと古いらしい。拝殿で見上げる赤松の見事な屋根組みに感心する。
「持統天皇5年(685)、使者を送り、龍田(たつた)風神と信濃須羽水内(すわみのち)の神を祀らしめた」と日本書紀にある。須羽は諏訪神で風の神、水内も風雨神という。本居宣長は「水内神は風に由緒あり、延喜式に風間神社の名がある」と古事記伝に書いている。
延喜式は、国の制度や全国の有力神社を記した史書で、市内の妻科、美和、守田神社も同じ格を誇る。

戦後、昭和30年代まで、一帯は水田や畑地が限りなく広がっていた。市街地の子どもたちは自転車を駆って、大豆島の飛行場に遠征した。そのときの目星が風間神社で、指呼の間の滑走路ではセスナ機が離着陸し、市街上空から宣伝ビラを撒いた。軽やかに舞う小型機を終日見物していても飽きなかった。近年、空から消えたのはアドバルーンと飛行機ビラだ。
「宴会などで風間神社の氏子だと言うと、ヘエー、ヒコーキの神社かいと言われて面食らった」。鳥居の前に屋敷を構える山口義昭さん(元県職員)の話だ。「長野市に飛行場があったことも若い人は知らなくなった」と嘆く。1927(昭和2)年生まれなので、戦前の建設・整地作業に学徒動員されたのが思い出だという。
風間神社の自慢は、長野市無形文化財に指定されている太々神楽(だいかぐら)獅子舞。地区の若い衆が技を磨いている。祝儀の「三番叟(さんばそう)」や「剣の舞」「母衣(ほろ)の舞」は華麗で雅を極めている。荒々しくいかつい一般の獅子舞と違い、荘厳で時には軽やか。畿内の能文化を映しているようだ。

古事記伝記載の風間神社と現存の神社の脈絡は定かでない。松代藩の記録では、元禄10年
(1697)、もともと諏訪社であったのを、風間大明神に改名した、とある。郷土史家は「式内社に改名した、信濃では一番古い例」という。
農業にとっては、台風が一番怖い。その大風を一刀両断してくれる風神、祈れば豊作を約束してくれた氏神であろう。
(2012年1月14日号掲載)
=写真=改装された豪壮な社殿