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3 松橋久左衛門 〜御開帳とセットで平和博〜

 長野平和博覧会の計画は1948(昭和23)年5月23日、松橋市長から市議会協議会に諮られ、実現のための調査研究が始められました。そして8月20日、市議会は満場一致で開催を決定。県と長野商工会議所が共催団体に加わりました。


 実施年の49年は善光寺の御開帳に当たる年で混雑が予想されました。


 場所は城山公園とその周辺一帯。会場は3つに分かれ、第1には国産館、長野県特産館、機械館、科学発明館、児童文化館が造られ、さらにテレビジョン館、野外演芸場、大会場が増設されました。第2会場には観光館、保健衛生館、美術館、農業館があり、第3会場には宗教館が設けられました。


 いよいよ49年4月1日10時半から、野外演芸場舞台で関係者1000人を集めて開会式が行われました。松橋市長令嬢の和子さんの手によって「平和の鐘」の綱が引かれるとカーンと厳かに響き渡り、ハトの群れが一斉に舞い立ち、やがて松橋市長の61日間に及ぶ平博の開会宣言がなされました。

 主な会場の出し物は下記の表のようでした。


 博覧会と善光寺御開帳はセットで行われ、一日1万人以上の誘客に1億円の収入を予算化しましたが、実際は60日間で入場者はざっと85万人、収入は7000万円ほどでやり繰りは大変だった、ともいわれました。


 しかし建物の用途先も決まり、それを市が買い上げる方式を取ったので「差し引きはまあ黒字」(「信毎」49・6・1付記事)というところでした。博覧会場の建物は市が実際に買い取って市役所の増改築資材に、また東部中学校の校舎や城山小学校の体育館の建築資材に、と無駄なく使われました。


 経済的採算はともかく、長野平和博が長野市の産業・経済・教育・文化の発展に大きな影響を与えたことは計り知れないものがありました。


(2012年1月21日号掲載)


=写真=長野平和博覧会のポスター


野外劇場

・毎日各種演芸の実演

 花柳万里助 花柳徳助 藤間千代枝社中

 小唄勝太郎

テレビジョン館

・200万円で借用した東芝テレビ

・野外劇場の実演を放映

児童文化館

・「信毎ができるまで」(スライドと展示)

・新しい学校の模型 

・アメリカ児童の生活

科学発明館

・東芝の心電図の展示

・通信局や測候所の実験

農業館

・バターの製造と実演と販売

・農機具の展示

蚕糸繊維館

・新しい蚕糸のあり方、民間の改良をパノラマ展示