炬燵妻 好きに眠りて 好きに縫う
桜井土音(どおん)
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真冬、外は雪が降り積もっている。田も畑も白一色に埋もれたままだ。
春から秋、忙しく重労働に追い回される農家にとって、このつかの間は、のんびりできる。

ふと見れば、妻は炭火のぬくもりが気持ちよさそうに、こたつでうとうとしている。そうかと思えば、針仕事に余念がない。
この一句の良さは、そんな妻をそっと穏やかに見守るまなざしの優しさ、温かさにある。
土音は1887(明治20)年10月14日、当時の上水内郡若槻村、現在の長野市若槻東条に生まれた。本名賢作、農家の長男である。
北に屏風さながらの三登山(みとやま)(923メートル)を背負い、南に長野市街地を見下ろす。かつての若槻村は、水田や桑畑の広がる全くの農村だった。
小学校を4年で終えた土音は、そのまま農業に従事する。明治期の少年の多くがそうだった。10歳そこそこで一家の貴重な働き手を担った。
やがて土音は、農業の傍ら俳句の道に踏み込む。家のすぐ東側を通る北国街道沿いに、俳人の高橋雁徳庵(がんとくあん)がおり、その手ほどきを受けたのだった。1912(大正元)年、20代半ばのことだ。
同じころ、東京では子規門下の高浜虚子が俳誌「ホトトギス」に雑詠欄を復活し、若手の育成に乗り出していた。土音はそこに投句を始める。
〈股も張りさけよと許りうつ田かな〉
〈野良飯や脛に飛びつく青蛙〉

土や汗のにおい、鳥や虫の躍動感があふれ出た句は「ホトトギス」の中で異彩を放った。"土の俳人"として広く評価を高めていく。
戦中戦後、小諸に疎開していた虚子は、長野にも足を運び、土音に一首を贈った。
〈土音健在村一番の稲架(はざ)作り〉
どんなにうれしかったことだろうな...。大の酒好きでもあった土音は、64(昭和39)年、77歳で亡くなった。そのひげもじゃの顔を想像しつつ、晴れ間がのぞいた日の午後、カメラ片手に東条へ向かった。
市街地から北へ若槻大通りが延び、両側にスーパー、飲食店などが立ち並んで、往時の面影はすっかり失せた。小学校門前の細い道を北国街道の方向へ進む。
「いい写真、撮れたかね?」 出会った男性に声を掛けられた。大通りとは異なり、古い家々が軒を寄せ合っている。「土音さんの家なら、ホラ、すぐそこに壁が見えている」
聞けばその人は、なんと土音の最初の師、雁徳庵の孫だという。これは奇遇というほかない。立ち話ながらも、どこのどなたが事情に通じているか、取材のポイントを教えてくださった。
家の構えがどっしりした集落を眺めていると、かつてその屋根の下で、こたつを囲む村人たちの、ゆったり流れた時間がしのばれてきた。
そんな暮らしを土音は、こうも詠んでいる。
〈寝るときめてあまりに熱し春炬燵〉
(2012年2月4日号掲載)
=写真=農村風景も少なくなった若槻東条
〔ホトトギス〕1897(明治30)年、正岡子規が友人と創刊した俳句雑誌。翌年から高浜虚子が継承し、多くの若手俳人を育てた。