雪尺余
津村信夫
あの人は死んでゐる
あの人は生きてゐる
私は 遠い都会から来た
今宵 哀しい報知(しらせ)をきいて
駅は 貨車の列は
民家も燈も 人の寂しい化粧(よそおい)も
地にあるものは なべて白い
(中略)
◇

重体、危篤。とりわけ愛する人が、生死の境に遭遇している。そう教えられれば、もう、居ても立ってもいられない。不安、焦燥、悪夢。悪い方へ、不吉な方向へ、思いは走りやすい。津村信夫がそうだった。
1935(昭和10)年1月、慶応大学経済学部の卒業を控え、卒論などに追われていた津村の元に、「小山昌子重体」の知らせが届く。
前年の夏、軽井沢で知り合って以来、東京から善光寺の街へ通い、頻繁に手紙を出し、胸中を打ち明けてきた、恋しくてならない人だ。
昌子にとって父親代わりの義兄、小川初次郎には結婚したい気持ちを伝えてあった。その初次郎からの連絡だ。
津村は汽車に飛び乗った。上野から長野まで信越線で約8時間。碓氷峠を越える際は満月が、降り積もった雪を青白く照らしていた。
長野に着くと、昌子は南県町の桑原病院で身を横たえていた。盲腸炎の手遅れで腹膜炎を併発したのだ。2度の手術をし、4日間は意識も薄れたままだった。そしてようやく、快方の兆しを見せたところである。
「雪尺余」はこう続く。
あの人は死んでゐない
あの人は生きてゐない
だが あの人は眠つてゐる
小さな町の 夜の雪に埋つて
ひとの憩ひの形に似て
昌子は1914(大正3)年3月18日、西長野の紙類を扱う商家に生まれた。数え15歳で父親が急死し苦労を重ねる。大病を患ったこの当時は、パンとケーキ職人の次兄繁蔵が、南県町に開いた店「勢国堂」の手伝いをしていた。

津村信夫は1909(明治42)年1月5日、神戸市で誕生した。父親は学者で実業家、母親は貴族院議員の娘という"坊ちゃん"である。
既にこのころ、大学生ながらも詩の世界では詩誌「四季」仲間の精鋭として頭角を現しつつあった。
「雪尺余」は〈あの人は生きてゐる〉の一行でもって終わる。不安から解放された安堵感、さらには喜び万感があふれ出そうだ。
それから77年、今も南県町には桑原外科と勢国堂が、すっかり装いを改めて存在する。人目を忍ぶようにして二人が歩いた妻科の住宅地も往生寺の高台も近い。
けれどもこの一角にかつて、こんな愛のドラマが展開していたとは、つい知らずにいた。表通りから一歩それるや、古い家並みの小路が、かすかに往時をしのばせる。
そこにたたずめば板塀の角から、丸顔で優しげな津村、その背に寄り添うように美人の誉れ高い昌子が、ふと立ち現れそうな気がしてきた。
〔四季〕詩の同人誌。津村の加わった第2次は丸山薫らが1934年創刊。伝統精神をくみつつ日本近代詩をリードした。
(2012年2月18日号掲載)
=写真=往時の面影が残る南県町の小路