
長野市内には数多くの天神社があるが、通称「長野天神」は格別の由緒と御利益を誇る。
善光寺表参道(中央通り)西側の花小路約200メートルが参道で、その突き当たりに鎮座する。市の大門連絡室が曲がり角だ。
本殿の右奥にある「孝信桜碑」の碑文が語る。江戸時代末のこと「近くの宮下嘉之(よしゆき)は父によく仕え家業を手伝いながら神道を勉強していたが、27歳の時、神様の手違いから、弘化4(1847)年の災厄(善光寺地震)で亡くなった...」
天神さん=菅原道真の業績を研究した嘉之は、名歌〈東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ〉のほかに〈さくら花 主をわすれぬ ものならば 吹き来む風に 言づてはせよ〉も詠んでいたことを知る。
藤原時平の横暴で大宰府に追われた道真は、その怨念を国花とも言うべき桜にも訴えていた。『後撰和歌集』の所載を突き止めたことは、大層な研究成果だ。

嘉之は近くの神社境内に桜の若木を植えて天神との縁(よすが)とする。ところが花が咲き始めた年のころ、地震により家屋の下敷きになる不運=神様の手違いに遭遇してしまう。
人々はこの桜木を「孝信桜」と名付けて愛で、父親は息子をしのぶ文章を伊勢神宮の御師(おし)・荒木田久守に頼んだ。久守は著名な国学者・荒木田久老(ひさおゆ)の子息。荒木田氏は代々、善光寺街での伊勢神宮PRマンを務めていた。
碑文には〈植ゑおきし 人の心を うつくしみ 神もあわれと 花を見るらむ〉との和歌を書き添えてある。碑の建立は1852(嘉永5)年、善光寺地震の5年後である。
天神信仰は全国を席巻した。学問の聖地として知られる東京の湯島天神は、元々の氏神は戸隠神社だった。昨夏、参拝して江戸庶民の並々ならぬ戸隠信仰を確認したが、その戸隠社を摂社として境内の隅に追いやった腕力は「藤原憎し」のリベンジ・パワーでもあろうか。道真は怨霊・雷神となって藤原一族に次々と鉄槌を下す。

天神信仰は判官びいきの日本人の心に同調する。受験期には湯島天神境内の王貞治さんの顕彰碑「努力」を撫でれば「合格」の御利益があるとか。それにならえば、長野天神の「孝信桜碑」の神威もおのずと分かる。
昨年はまたも、神様の手違いから、約2万人にも達する無残・無念を目撃し、私たちの神は全能ではないことを思い知った。嘉之や道真の無念を知れば、私たちにも今を生きる覚悟が生じる。
孝信桜碑(写真下)は社殿右奥にある