
長野市役所の西側駐車場隣に鎮座する菊屋稲荷=写真=は毎月1日に祭事を欠かさない。「御利益はすごいよ」と、近くの古書店主が教えてくれた。
以前、若松町にあった市役所は1965(昭和40)年に現在地に移転。当時の周辺は、旧東京ガスの黒い円筒形タンクがランドマーク。小さな商店と住家・長屋がちらほら。畑や水田が広がっていた。
先に建設された市民会館は、かつて牧場だった空き地に建てられた。現在残るポプラの大木数本は牧場の名残だ。小路に沿って流れる北八幡川(現在は暗渠)の端には、戦前の名物市長・丸山弁三郎(1879--1957)の自宅もあった。
それが今や、オフィスビル・マンション街に変身、市役所に至近の一等地となった。
この稲荷には「問御所の大庄屋で造り酒屋・菊屋の屋敷神だった。源頼朝や武田信玄が善光寺に向かう途中に参拝した」という伝説がある。菊屋は庄屋族のまとめ役・山崎氏の屋号で、江戸時代には広大な土地を持ち酒屋で大いに稼いだ。
ところが明治維新後に稲荷信仰は衰退、社殿、神域はすっかり荒廃してしまった。「もったいないねえ。菊屋が繁盛した霊験があるのに...」と、市内の信者が日之出講を組織し復活した。

本殿は台座を含め背丈ほどだが、それをすっぽり覆う拝殿を72年にモルタル塗りに改装した。100人余の寄付奉納額を拝見すると、地元緑町や問御所近辺の有力者、大地主や企業名が並ぶ。
中には、戦後盛名を響かせたが数年前に倒産した企業や経営不振の事業者、消えた財産家の氏名もチラホラあるのに気付く。戦後経済の激しい栄枯盛衰を物語っている。
「このお稲荷さん、ほんとに御利益があるのかねえ?」
「あるもないも! これを読んでみな」。古書店主が『長野市誌』第8巻--旧市町村史編を見せてくれた。
菊屋稲荷の項には「裾花河畔に温泉開削をしていた某氏が、資金繰りを当社に祈った帰途、二重回し(昔の防寒コート)のポケットから、全盛時代に入れ忘れた百円札を発見。以後、日之出講の中心人物になったという」と明記してある。中心市街地の商店主なら多くが知っている有名なエピソードだという。
お稲荷さんは豊作祈願ばかりだと思っていたが、信者のピンチを救う大魔神でもあるらしい。