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131 千石稲荷 〜長野駅前の裏小路に鎮座

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 JR長野駅前の飲食店が連なる裏小路・千石街の氏神さまだ。この小路に立派なお稲荷さんが鎮座しているのに気付く人は少ない=写真。表通りの末広町は地元に氏神を持たず、妻科神社の氏子だ。


 かつての千石街は、中学、高校の期末テストの終わった日の午後など、ストレス解消の男女学生たちであふれた映画街だった。お目当ては、ヨーロッパ映画。例えば『太陽がいっぱい』『第三の男』『ブーベの恋人』。渋いところでは『自転車泥棒』『鉄道員』『禁じられた遊び』『モンパルナスの灯』などなど。


 トイレの臭気が漂う、立すいの余地もない洋画劇場の思い出...。今日では、給食のメニューと懐かしの洋画の話題はジジババ世代の専売特許となってしまった。


 映画で人気だった千石街と駅前・末広町の一帯は、1888(明治21)年に信越線の停車場=長野駅ができるまで、見渡す限り茫々の水田だった。


 当時、火の粉を振りまく陸蒸気は毛嫌いされ、川向こうの松代や須坂からは拒絶された。


 長野では「参拝客を呼べるが、危険な汽車は田んぼの中がよかろう」と、善光寺本堂や参道の商店からできるだけ離れた場所が駅舎に選定された。


 やがて善光寺門前の有名旅館・藤屋、五明館,山屋が駅前支店の開業を競い、土産店、蕎麦店などの掘っ立て小屋が立ち並び、人力車や客引きの番頭がたむろして繁華街に成長した。


 旅館の支店から門前の本店までは私設の電話線が敷かれ、「こちら駅前、団体さん12人確保。お迎え頼む」「了解。承知の助...」なんてやりとりが交わされた。


 篠ノ井線が開通した1912(明治45)年には、長野駅の乗降客は41万人を数えた。周辺の村々からも一旗揚げようという面々がこの街に集まり、飲食店が軒を連ねるようになった。


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 戦後の一時期を除いて市内随一の権堂町のにぎわいを奪ったのは、旧国鉄駅前という抜群の立地のおかげだ。駅周辺の地価はまだ少々下げ続けているが、土一升金一升の土地には違いない。


 「わしが鎮座しているここが、坪当たりン十万円になるとは...」。お稲荷さんも、京都の伏見稲荷から勧請された時には想像もできないことだったろう。


 「千石」という語句は、千石船、千成瓢箪と同じく美辞で、水田の限りない収穫量を意味する。


 2館に分かれていた千石劇場のうち、小劇場はゲーム店に衣替えしたが、大劇場は健在だ。そんな街の歴史と通りがかる老若男女を見詰め、堅固な石壇に乗る立派な社殿は、なんと鉄のアングルで防備され威風堂々、小さな聖地になっている。

 
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