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14 池田満寿夫さん 〜舞台装置の制作依頼 巧みな絵にびっくり〜

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 バレエ教室には、生徒さん以外にもいろいろな人が出入りしていました。毎日レッスンがあるわけではなく、空いている時間も多いスタジオという空間は人が寄るのに便利です。私もオープンな性格ですから一緒になって話したり、食べ物を差し入れたりで、気兼ねせず出入りしやすかったのだと思います。一種のサロンのような感じでした。


 慶応大学に通っていた弟が演劇をやっており、東大や上智大、早稲田大の仲間と訪れて演劇論や芸術論を戦わせることもありましたし、バレリーナの絵を描きにくる画学生もいました。


画学生のアルバイト

 この学生さんたちに発表会用の舞台装置を依頼すると、いいアルバイトだと喜んでくれ、私にとってもありがたいことでした。業者に頼むと完成品で納品されるのですが、画学生に頼むと制作過程を見ながら希望を口出しできるのが便利なのです。


 1954(昭和29)年、第4回目の発表会の出し物は「白雪姫」でした。私はいつものように画学生に「白雪姫の家、小人の家を作って」と相談しました。舞台装置ですから、5、6人による大掛かりな共同作業です。バケツに砥の粉や顔料などを入れ、スタジオに広げた布地に塗っていきました。


 たぶんリーダー役が構図を考えて下絵を描き、分担を指示するなど全体を仕切っていたのだと思いますが、完成したその装置を見て、あまりの巧みさに私はびっくりしてしまいました。


 この時のリーダーが後に有名になる池田満寿夫さんでした。当時は東京暮らしでしたが、長野高校出身ですから私の家に出入りしていた画学生の紹介で装置制作のアルバイトに来たのでしょう。


 池田さんの絵は鮮烈で、体の中に稲妻が走るような感覚でした。もちろん、当時はまだ全くの無名。それでも私は、この年の舞台装置の写真をずっと保存しています。


 この人たちが一体どんな生活をしているのかと興味を持ち、画学生たちのアパートを訪ねたことがありました。「日暮里」というメモをもらっていたので、駅員さんに「ひぐれさと」はどこかと尋ねて怪訝な顔をされ、初めて「にっぽり」と読むのだと知りました。田舎者でしたね。


 アパートには絵を志す人が何人か集まっていました。コッペパン一つで1日過ごすなど、貧乏暮らしの経験のない私には想像できないような暮らし向きで「芸術を志すために赤貧に甘んじて頑張っている」と感動しました。私は定食屋に連れ出して皆で食事をしました。


無名時代を支えて...

 後に池田さんが有名になると「私が見込んだだけのことはある」と思っていましたが、無名時代に彼を支えてくれた奥さまと別れてしまったのは理解できませんでした。


 その後、安茂里辺りの喫茶店か画廊か、「池田満寿夫」という看板があるのを見つけてハッとしました。池田さんの素晴らしい才能は心の片隅でいつも気になっていました。同時に、同じ女として、困難な時代を支えた最初の奥さまに思いをめぐらせることもよくありました。


 どなたがやっているのだろう、いつか寄ってみたいと思っているうちに看板はなくなっていました。池田満寿夫という文字が今も頭に焼き付いています。 

(聞き書き・北原広子)

(2012年2月4日号掲載)


=写真=池田満寿夫さんが描いた絵をバックに発表会

 
倉島照代さん