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15 コンクール 〜参加で伸びると確信 上位入賞の常連に〜

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 バレエの人気は、高度経済成長期という時代の波もあって高まり、昭和30年代半ばころから公演依頼が特に増えました。毎年の発表会に加え、お祭りやイベントのアトラクションなどにも引っ張りだこでした。毎週のように公演をこなす月もあり、よくやったものだと思います。


 宮下さんが先駆者

 上手な生徒さんがたくさんいた中で、宮下京子さんという特別目立つ子がいました。中央通りに大きな店を構えていた宮下金物店のお嬢さんで、かわいらしくて上手で表現力にも優れ、お母さんがステージママのように熱心。衣装もすべてお母さんの手作りでした。4歳で私の教室に入り、小学2、3年で公演の主役を取るくらい抜群の力がありました。


 1961(昭和36)年にボリショイバレエ団のメンバーが初めて長野を訪問するという、バレエ人気を象徴するような出来事がありました。中心メンバーは、レペシンスカヤさんという世界的に有名なプリマバレリーナです。林廣吉さんが設立したチャイコフスキー記念東京バレエ学校のお祝いに来て、林さんのつてで長野を訪れたのではないかと思いますが、当時としては画期的でした。


 この時、京子さんのお母さんが、当時小学5年か6年だった娘の可能性を尋ねたところ「足に甲があって、ジャンプ力があることが必要で、京子さんなら大丈夫だろう」とお墨付きをもらったので大喜びをしていました。私たちは中島会館で催された歓迎レセプションでバレエを披露しました。


 その後、私が松本教室開設に当たって指導をお願いした、谷桃子バレエ団の団員だった横瀬三郎先生が、京子さんをとても気に入り、かわいがってくれ、東京の自分のバレエ団に入れました。高校入学後は京子さんは外国のコンクールでも上位入賞し、日本トップクラスのバレリーナとして活躍しました。


 長野バレエ団からは数多くの世界的に活躍するダンサーが育っていますが、あらためて記録を振り返ってみると、先駆者はこの宮下京子さんだったことが分かりました。彼女は71年の全国バレエコンクールで1位になっているのです。全国から何百人も参加する中での1位ですから、素晴らしい成績でした。


 「指導者賞」も初受賞

 ところが私はずっと、長野バレエ団からコンクールに参加したのは、76年に3位という輝かしい成績を収めた永井美晴さんが最初だと思い込んでいました。児童部門の1位から3位までの入賞者の指導者には名誉ある「指導者賞」が授与されることになっており、私も受賞していました。


 それまで、長野という田舎にあっても正統派のバレエをしっかりやっていこうと努力していたものですから、コンクールのことは考えていませんでした。試しに永井さんを出してみようという軽い気持ちだったのが、いきなり3位に。指導者賞がどんなにすごい賞かも知らず、一人で授賞式に参加したら、びっくりされました。他の皆さんには同伴者がいらして、賞状や賞品を手分けして運ぶのに、私は一人で運ぶはめになり、重さをひしひしと感じました。


 このこと以来、コンクールを目指すことで力を伸ばせることを確信してから、毎年のように参加し、長野バレエ団員は上位入賞の常連となり、知名度も高まりました。このころ、長野で上映されたイギリス映画の『赤い靴』は、バレエ界に一大ブームを巻き起こし、入門者が多くなったことが、忘れられません。

(聞き書き・北原広子)

(2012年2月11日号掲載)


=写真=初参加で3位になった永井美晴さん

 
倉島照代さん