
戸倉上山田温泉の西方に位置し、地元では城山と呼んでいる山頂に築かれた山城。現在は城跡を中心に「城山史跡公園」として、千曲市の歴史と文化の拠点になっている。
案内板には、中世の史実に基づいて館、丘舎、矢倉門、物見櫓、柵などを復元したと書かれている。本郭を囲む曲輪は広葉樹の丸太で柵を施し、戦国時代の山城がいかに素朴で実戦的であるかが一目瞭然である。
築城は戦国時代の中期、村上氏から分かれた山田氏による。その後、同じく村上氏支族の屋代氏の支配となったが、屋代氏は早期に武田氏に降り、村上氏に反旗を翻したため、村上氏の没落を早めたという説もある。
武田氏が滅び、本能寺で信長が討たれて以降、北信濃は上杉氏の支配となり、追われていた豪族たちが旧領に復帰するところとなった。この時、村上義清の子・国清が海津城将となり、屋代政国の子・秀正が副将となって北信地方の仕置きを任されたのである。
屋代秀正は父の代で村上氏を裏切って武田氏についたので、海津城は居心地が悪かったのか、家康の誘いに乗ってしまった。この荒砥城に立てこもったが、すぐに上杉軍に攻められたため城を脱出し、関東の家康の下へ走り、徳川氏の旗本となった。この時代、同族であっても生き残るための裏切りや敵対は茶飯事で、小領主たちの共通の生きざまでもあった。
荒砥城跡へは国道18号から万葉橋を渡り、そのまま直進し、急坂を駆け上がっていくと間もなく公園の駐車場がある。橋西側のたもとには万葉歌碑を集めた万葉公園があった。
信濃なる千曲の川のさざれ石(し)も君し踏み てば玉と拾は む
信濃にある千曲川の小石でも、あなたが踏んだ石なら玉として拾いましょう。千数百年前、信濃の乙女はこんな素朴な恋の歌を詠んでいたのである。
(2012年2月4日号掲載)
=写真=城山の山頂に築かれた荒砥城