
須坂市から松代方面にかけては標高1000メートル級の明覚山、明徳山、奇妙山がどっしりと構えている。この3山は各方面に支脈を発し、その途中に多くの山城が築かれている。
雨引城は明覚山の頂上にあり、登山口は須坂小学校脇の市民体育館と市民プールの間にあった。そこから980メートルの山頂の城跡を目指す。月の名所の鎌田山まで階段を直登し、雑木林を抜けると細尾根の急坂があり、三峰神社がある坂田山頂に至る。ここまでの所要時間は約2時間。城跡まではさらに40分程度を要す。
標高差約600メートル、片道に3時間近く要する山城は初めてだ。このような遠隔の山城は実際に使用されたものであろうか。城跡は成林したスギ林に覆われているが、北側の樹間からわずかに絶景を楽しむことができる。
樹木の搬出や植林時に改変したものか、城跡の遺構はほとんど確認できなかった。山頂から北尾根を下った中腹に大岩城跡や月生城跡があるが、立地からして雨引城はこの二つの詰城ではなかったかと思われる。
したがって、当城主は大岩城主の須田氏。戦国初期に臥竜山に根拠を置いた須田氏から分かれた大岩須田氏が大岩郷を治めた。
戦国期は須田満国、満親が城主。武田氏の侵攻が迫ってくると上杉氏を頼ってこの地を去ったが、武田氏滅亡後は海津城将として復帰し北信地方を治めた。
上杉氏の会津移封には子息の満親が従い、信濃出身武士団の中では最高の知行を得たという。しかし、江戸時代中頃、子孫の須田氏は上杉鷹山の改革に反対したため切腹に処せられてしまった。
しだれ桜で有名な高山村水中から須坂市豊丘に抜ける林道が開設されており、行政界の灰野峠から尾根筋を西行すると比較的簡単に雨引城跡に至ると資料にあるが、峠から一見するかぎり尾根筋に明瞭な歩道は確認できなかった。灰野峠の旧道は水中から中野を経て飯山に通ずる間道で「謙信道」と呼ばれる上杉軍の軍道であったという。
(2012年2月25日号掲載)
写真=左奥のピークが明覚山。右の前山は坂田山