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43 「戒壇めぐり」から思うこと2

 〈承前=前文をうけつぐこと。つづき〉

 原始経典『阿含経』の一節「光から闇に赴く人」について考えてみたい。善光寺の「お戒壇めぐり」を思い浮かべていただきながらである。


 突然、奈落の底へ

 ある日ある時、突然奈落の底へ突き落とされる。「奈落の底」というのは「物事のどん底、地獄の底、永久に浮かぶ瀬のないところ」(広辞苑)という意味だ。そこへ予告もなく、心用意もない時に突き落とされるのである。


 それは地震・津波・洪水・火事・台風などの天災によって。自動車・通り魔によって。あるいは自らの不注意によって...。この度の福島原発の事故などは、その最たるものであるが。


 それらによって結果として、一家路頭に迷う、家族が崩壊する、ひとり放り出される、家財産を失う。多年にわたって積み上げてきた研究資料等が灰燼に帰す、不治の心身障害となる、などなど。新聞が報ずるだけでも、そんな奈落の世界が日常茶飯のようにあるのが現実だ。一朝にして光から闇の世界へである。


 雑踏のなかの孤独

 闇の世界へ追い込まれたり、引きずり込まれたり、あるいは孤独に打ちひしがれたりするのは、災害や他所からの力によることもあるが、自らの内側から起こることも否めない。浅はかさや怠惰や精神の弛緩(たるみ、だらしなさ)や無明(煩悩にとらわれた迷いの世界)によることが多いからだ。


 人に囲まれていれば淋しくない、孤独ではない、というものではない。大群衆のなかにあって、人ごみをかき分け袖振り合って歩いていても、他生の縁ともならず泣きながら歩く。そんな人を見掛けることもしばしばだ。


 また、ひとり暮らしだから淋しい、孤独だというものでもない。むしろそこに悠々自適、充足感をもって暮らしている老人はいくらでもいる。それを愉しんでいる老人もいる。尾崎放哉(1885〜1926)の句に


 咳をしてもひとり


 があるが、ここからは孤独感など何も伝わってこない。むしろ、そこには達観した盤石の思いがある。ひとりと淋しいは別の次元だ。

人は心が愉快であれば終日歩いても疲れないが、憂いがあれば数歩にして疲れる。

 シェークスピアの言葉だ。


仙人といえども

 仙人が長野の町中に住み、洋服を着ていたり、自転車に乗っていたのでは様にならない。奥山とは言わないまでも、人里離れた草深い神の領域に近い辺りに住んでもらわないと、似つかわしくないのである。丸顔のおでぶさんではなく、白髯(あごひげ)をなびかせ長杖を曳き、ぜひとも長身痩躯に白布をまとってもらわねばならぬのである。


 ところで、その悟達の境涯にあって、ひとり暮らしのはずの仙人といえども、実はひとりでは暮らせないというのだ。犬を飼うなり、山で仲良くなったタヌキやリスと食事を共にしているというのである。


 そういえば、詩人・彫刻家の高村光太郎が戦時中、東北の花巻郊外に疎開していた折、壁の破れから出入りしていたネズミと仲良くなって、食事を楽しんでいたという話を聞いたことがある。

 里の我が家でのひとり暮らしと、山中でのそれとはおのずから別のことのようだ。


光から闇へ

 脈絡のつながらない話をとりとめもなく書いてしまった。

 さんさんと陽の降り注ぐ仲見世を通って、善光寺の大御堂へ。大伽藍の堂内はさすがに薄暗い。蝋燭の灯がゆらめく中を仏前に額ずく。戒壇草履をいただいて階段を下る。板壁を手探りで歩く。中は漆黒の闇だ。


 光の世界とは勝手がすべて違う。辛うじてうごめくようにしている小さな自分だけが頼りだ。巨きな深遠な魂に縋り付くような私が、そこにいるだけだ。

2月18日号掲載

 
美しい晩年