春浅し 苔に坐りて 苔むしり 別れ悲しみ 去りがてし森 中原静子
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古めかしく言えば、これは「道ならぬ恋」を歌う相聞歌ということになる。

しかも小学校長と、その下で教壇に立ったばかりの新任女教師との仲だ。当然、断ち切らなくてはならない定めに胸ふさがれる時が訪れる。
春は名のみのころ、逢瀬を重ねた森のコケも乾いている。そこに座ってコケをむしる。むしっては捨て、募る別れの悲しさに、なかなか立ち去ることができない。
1909(明治42)年3月8日、久保田俊彦、後の大歌人・島木赤彦は、東筑摩郡広丘村(現在の塩尻市広丘)の広丘尋常高等小学校に、校長としてやってきた。
諏訪郡下諏訪町に妻子を残しての単身赴任である。下宿先は学校近くの旧家「牛屋」だ。赤彦の部屋には村の青年や教師らが出入りするようになる。歌を学び万葉集の講義を受け、人生論を交わすのだった。

その中の一人が、小県郡武石村生まれの中原静子である。松本女子師範を卒業し、広丘小学校の教師になった。静子が牛屋の別棟に下宿したことも加わり、二人の関係は深まっていく。
このとき赤彦は34歳の男盛り、静子は20歳の娘盛りだ。歌の勉強をしながらも、互いに恋心が膨らむのを抑えられなかった。
静子は歌っている。
丈あまる草木をわける先生の腕(かいな)の下をくぐりては行きし
秘め心思ひ見るさへはかなくてうつらうつらと秋草の中に
木曽谷を北上して松本平の南端、塩尻に差し掛かった奈良井川の右岸、東側一帯は桔梗ケ原と呼ばれる。今ではブドウの栽培が盛んで、電機や精密機械工場も多い。

1世紀も昔の明治のころはほとんど原野か田畑であり、小高い丘には松林が続いていた。
春から秋は草木が繁り、キキョウやオミナエシなどの花が競い合う。かき分けて進む森の奥は、格好の場所だった。
赤彦は詠んでいる。
この森の奥どにこもる丹(に)の花のとはにさくらん森のおくどに
いとつよき日ざしに照らふ丹の頬を草の深みにあひ見つるかな
森の奥に咲く赤い花に静子への熱い思いを込める。あるいは強い日差しに照らされて紅潮した顔を見詰め合う。
校長として教師としてどうか、となれば、厳しい責め苦を負わされるだろう。妻子の立場からは、許せるはずもない。
けれども二人が、のっぴきならないところで懸命に向き合っていたことも、歌の節々から感じ取れる。ただおぼれているのではない。もだえ苦しんでいる。
2年後、赤彦は広丘を去った。再び諏訪に戻って郡視学となり、各学校の指導、監督に当たる重責をゆだねられた。
それでも1914(大正3)年、その要職をなげうって上京する。歌誌『アララギ』の編集に専念するためだ。近代短歌をリードしたアララギ派指導者への道である。
一方、静子は1923(大正12)年、34歳で長野市の会社員・川井明治郎に嫁ぎ、1男1女に恵まれた。こんな一首を残している。
今は何も、思はなくにひたすらに健康にとて目ざめつるかな
〔相聞歌〕万葉集で歌を分類する3大部立ての一つ。多くは恋愛の歌が占め、親や兄弟、友などへの親愛も含まれる。
(2012年3月3日号掲載)
=写真1=桔梗ケ原の松林
=写真2=下宿先だった「牛屋」