ゴンドラの唄
吉井 勇 作詞
中山晋平 作曲
一、いのち短し 恋せよ乙女
朱(あか)き唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日の ないものを
ゴットン、ゴットン...車輪がレールと共鳴する。シュッシュッと機関車が蒸気を噴き出し、ときおり汽笛も鋭く夜の空気を震わせる。
1915(大正4)年4月のことだ。鉄路の振動に身を委ねた中山晋平を、深い悲しみが包んでいた。母親ぞうの葬儀を済ませ、再び東京に向かう夜行列車の中である。
晋平が6歳のころ、夫の実之助に先立たれた母だった。養蚕のきつい仕事をこなし、女手一つで5人の子を育てている。わらべ歌や子守歌を歌ってもくれた...。

「ハハキトク スグカエレ」の電報で下高井郡日野村新野(現在の中野市新野)の生家に駆け付ける。すると既に母の顔には白い布が被せられていた。
列車は夜の暗闇をひた走る。涙がこぼれ落ちそうになる。むせび泣きをこらえられない。
独り悲しみに耐えている晋平の脳裏に、低くゆっくり、一つの曲が頭をもたげてきた。
「いのち みじかし こいせよ おとめ」「あすの つきひの ないものを」
ロマンチックでつやっぽい吉井勇の歌詞とは異なり、初めから終わりまで寂しげなメロディーだ。もの悲しく地の底まで吸い込まれそうに思えてくる。
このとき晋平は、試練のさなかにあった。住み込みの書生として仕える師の島村抱月から命じられた作曲が、お先真っ暗なままだった。
ツルゲーネフ原作『その前夜』の劇中歌として「ゴンドラの唄」の歌詞を渡されていたのだ。公演が迫っている。でも曲想がわかない。加えて急な母親の不幸である。
苦悩と悲痛の底から、ようやく旋律が立ち上がったのだ。さっそく楽譜にし、翌朝上野駅に着くや人力車に乗って抱月に手渡した。
前年の14年にはやはり女優・松井須磨子の歌う「カチューシャの唄」を作曲し、大当たりさせている。二つの劇中歌の成功で晋平は、やがて童謡、民謡へ大作曲家の道をたどる確かな一歩を刻んだのだった。

今、晋平の生家は保存され、隣に立派な記念館が建っている。中野市街地から南に約3キロ。北に北信濃のシンボル高社山(1351・5メートル)が雪を頂いている。西北には北信五岳が連なる。眼前の延徳たんぼは、晋平が信越線豊野駅との間を行き来した道沿いだ。
「ゴンドラの唄」にはもう一つ、忘れ難い物語がある。1952(昭和27)年、黒沢明監督の映画『生きる』の一こまによって生み出された。
渋い演技者・志村喬の扮する市役所の課長が胃がんを告げられ、自分の生きた証しに余命を振り絞って造った小さな公園。そのブランコに座り、しみじみつぶやくように歌う場面だ。
新たな命が吹きこまれた「ゴンドラの唄」を晋平は、粗末な映画館で聞いた。それから28日後、この世を旅立っていく。65歳になっていた。
〔島村抱月〕明治・大正時代の演出家、新劇指導者、文芸評論家。信州松代出身の女優・松井須磨子を擁して芸術座を率いた。
(2012年3月17日号掲載)
=写真=保存されている中山晋平の生家