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133 往生院 〜境内に「漫畫界鬼才」の肖像碑〜

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 権堂アーケード通りの西側入り口近くにある往生院。雪の降る平日の午後、本堂には目もくれず左脇の弁財天=写真上=に直行し、参拝する女性が少なくなかった。


 --どんな御利益があるんですか?

 「あら、べんてんさんの御利益って決まってるでしょ。オホホ...」と和服のママさん風。続いて毛皮のハーフコートにミニスカ&ブーツさんは「毎日、お勤めバッチリよ」。


 ブランド物のバッグを提げた年増さんは「特に女性の願いをかなえてくれます」とおさい銭を欠かさない。凍った雪面の足跡から推測すると、毎日の参拝者数は相当なものだ。


 往生院は善光寺本堂が焼失した時、本尊が仮住まいする場所=権堂なのだ。「権」とは、仮とか副の意味で、この寺が権堂町の語源になった。昔、源頼朝が参拝した時、池の蓮華の花に感心したとかで山号は「蓮池山(はすいけさん)」と呼ぶ。


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 境内には面白い肖像碑=写真下=があって「漫畫界の鬼才 安本亮一君の碑」と題してある。安本亮一(1901〜50)は通称「マンガの安本」と呼ばれ、近辺で人気者だった。1950(昭和25)年に亡くなって、もう60年以上がたつ。仕事ぶりを描いたレリーフもすっかり薄くなってしまった。 


 70歳以上の人なら、戦後の一時期発行されていた新聞「夕刊信州」の漫画を知っているはずだ。洒脱な分かりやすい絵柄が好評だった。


 安本はキャリア・交友がすごい。東京浅草の人形師の家に生まれ、東京美術学校(現・東京芸大)を卒業。関東大震災で信州に疎開した時、信濃毎日新聞の当時の主筆・風見章に招かれ入社したが、東京に戻り、漫画家・岡本一平(岡本かの子の夫)に師事、マスコミの一線に本格デビューした。


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 第2次大戦中、再び信州に疎開、地元夕刊紙創刊に参画。毎日健筆を振るったから、夜な夜な出没する権堂の人気者になった。「フクちゃん」の横山隆一が、わざわざ表敬・慰問に来たほどの実力があった。その時、長野駅頭で出迎えた安本は、もらった高級ウイスキーをホームに落として割ってしまった。とっさにはいつくばり、コンクリートをぺろぺろ--という伝説が残る。


 東京に戻り、ジャーナリズムの世界での復活を念願していた安本だが、貧窮の中で飲み過ぎ、市内城山の借家で亡くなった。


 この肖像碑の建立者は北澤楽天という先覚の漫画家。明治初期に外国政治漫画の手法を学び、福沢諭吉に招かれて時事新報で活躍した人だ。風刺のポンチ絵を芸術にまで高めた-と評価される。建立には放送・新聞や権堂町の飲み仲間も大勢協力したと伝わる。

(2012年3月17日号掲載)

 
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