
平林街道沿いの平安堂東和田店の北側街区にある5差路の小路。地区の倉庫軒下に10体の石仏がずらりと並ぶ=写真上。「東和田の十王堂(じゅうおうどう)」と呼び、市内では十王信仰の典型とされる。
仏教の因果応報の思想を具現化したものだ。人殺しや強盗を働くと厳しい罰が待つのは、江戸時代も今も同じ。「悪い事はしていない。だから地獄には絶対落ちない」とうそぶいている人には、次の点を伺いたい。
(1)尊敬する先輩の業(わざ)を盗み、その言葉を自分のオリジナルな教訓として語ったことはないか(不偸盗戒(ふちゅうとうかい))?
(2)美人やイケメンを見て妄想を抱いたことは(邪淫戒)?
(3)酒を飲み過ぎて乱れたことは(飲酒戒(おんじゅかい))?
(4)臨時の手当や年末調整の現金還付を連れ合いに黙っていたことは(不妄語戒)?
「そんなことを言えば、みんな閻魔さんに舌を抜かれたり、地獄に落ちてしまう!」
そうなのだ。誰でもどこかで「十王経」信仰を破っている。だから、ほとんどの亡者は地獄行きだ。
「それじゃあんまりだ。敗者復活戦とか、執行猶予とかはないのですか」

ある。そもそも、中国の唐時代末に成立した十王経の要は六道・輪廻転生の思想にある。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間(じんかん)、天界のこと。未熟な人間は、この六道界をグルグル回るばかり=輪廻=で、永久に極楽往生はない。「死に変わり、生まれ変わり」を繰り返す-と十王経は絶望的なお説教だ。
冥途へ行くと、裁判官である十王が待っている。初七日は、まず秦広王よる書類審査。「有体に申し上げろ」と廷吏の赤鬼、青鬼が責め立てる。
次は初江王で「有罪か無罪か」が問われる。有罪だと、生前の行い、善悪の度合いで懲役刑が決まる。地獄はどこへ行くか。針の山、血の池、熱湯釜、火あぶり...どれでもお好み次第だ。
閻魔さんでは、浄玻璃という鏡に生前の所業が映される。再審制度もあり、遺族の供養の度合いで温情救済もされる。
これらは江戸時代中期に盛んに喧伝された思想で、法度・禁制(今日の刑法)を庶民に分かりやすい教訓とした為政者の方便でもあった。
ここの十王は、1978(昭和53)年の市教委の記録では1体欠け9体だった。ところが現在は左端に男女が寄り添う双体神石像が加えられている。人間、厳しい戒律だけでは納得しない、時には温かい愛の救いも...と、意味深な仏像群である。

「昭和8,9年ころ1体盗まれまして、村が補充したと聞いています」と近くの成田好則さん。閻魔が立つべき5番目に、地蔵さんが立っているのも不思議だ=写真下。「明治の廃仏毀釈の時、政令を誤解して入れ替えたようです」。毎年8月23日(地蔵盆)には庵主さんを招き、盛大なお祭りをしている。
(2012年3月24日号掲載)