
竹の城は平安のころから北信地方で栄えた井上城を本城とする井上氏の支城である。
長野市内から屋島橋を渡り、須坂信号機を右折して菅平方向に進むと道路に沿うように右側に丘陵があり、その山頂に城跡がある。
大洞山から北方に延びている稜線の中間に位置し、城跡からは須坂市内が一望できる景勝地でもある。登山道は北尾根突端の藤山の鼻からの大手道と、八丁集落の薬師庵から前山つつじ公園を経由する2コースがある。
コースが明瞭で歩道も整備されている八丁口からは20分程度、大手からは30分程度。
薬師庵からは、つつじ公園を過ぎると間もなく城跡と大洞山を結ぶ稜線に出て、緩斜面の歩道を進むと幾重にも設けられた堀切の遺構があり、最後に急斜面を上がりきると円形状の本郭跡がある。
中央には学校登山の記念ボードが多数あり、市民に親しまれている城跡でもある。本郭の前後には多数の堀切と曲輪の平地が認められ、大手筋には大岩を縫うように険しい道が本郭を守っている。
遺構は南北300メートルに及ぶが、東西側は急斜面のためほとんど加工されていない。
戦国時代、竹の城は井上城と同様、武田軍の信濃侵攻の犠牲となった山城で本城と運命を共にしてきた。
本郭からは井上本城も視野に入れることができ、狼煙の通信や連絡を図るには都合の良い位置関係にある。
井上城は大城、小城を擁し、さらに竹の城があって、三つの城砦が連携して作戦を立てられる利便さを備えている。井上氏は大岩の須田氏、中野の高梨氏らと共に村上氏の旗下にあって、川中島の戦いでは上杉軍の先鋒として奮闘した戦歴を持つが、上杉氏の会津移封のとき、北信濃の武士たちと共に会津へ随行した。
井上氏は古くから井上に根を張って数々の戦いで活躍してきた-と文献にある。須田氏や高梨氏、保科氏など北信濃の有力な豪族は井上氏の出身であり、また、全国の井上姓のルーツともいわれている。
(2012年3月3日号掲載)
=写真=井上集落の後方山頂が竹の城跡