記事カテゴリ:

45 「戒壇めぐり」から思うこと4

 〈承前〉旅はひと足ひと足、なにはともかく自分の脚に頼るしかない。"足腰立つうち"とはよく言ったもの、すべては足頼みだ。


 遠出の履き物は草鞋をおいては考えられない。冬の藁仕事は筵、蓑、縄など数々あるが、「おとうは土間で わら打ち仕事」の主たるものは、家族1年分の草鞋、草履を作ることだった。家族5人としても何百束という数を必要とする。


  草鞋の緒を結ぶとき

 伊那が生んだ民俗学者の向山雅重氏によると、一口に草鞋と言っても様々で、石切場、街道往来の馬方、峠越え、畑仕事など、職種によって微妙に違うのだそうだ。私にはその違いなど分からないが、今でも草鞋をよく履く。塩の道(千国街道)祭りのときには薬屋に扮して33年間、先頭に立って歩き続けてきたし、四国遍路、西国巡礼、熊野古道、善光寺街道、奥の細道など由緒ある古道を歩くときは草鞋に頼ってきた。つい先年の小豆島の四国八十八箇所巡礼のときもそうしてきた。


 島崎藤村の「朝」には

 草鞋とく(疾く)結へ鎌も執れ

 風に嘶く馬もやれ


があり、山頭火には

 今日のうれしさは草鞋のよさは

の句があるが、草鞋の緒をきりっと結んで立つと「さあ歩くぞ」という気概が込み上げてくる。草鞋には大地にピッタリとなじむ感触があって、足さばきが実に軽快だ。土に刻まれた歴史が足裏から伝わってくる、えも言われぬ感動があるのだ。

 

 草鞋は念のために2足持つのが普通のようだ。途中の茶店などにはいくらも売っているから何ら心配はないのだが-。津山からの往復の全行程で何足必要になるのか見当もつかない。草鞋の出来栄えや歩く距離にもよるが、仮に1日1足とすれば、最低40〜50束は要る勘定だ。


  家の敷居を跨ぐまで

 草鞋の緒を結んでいよいよ出立するまでに、どんなことをしてきたのか。例えば善光寺詣りの体験者をたずねて峠越えの様子や、沿道の社寺や見どころなどの話を聞いたり、それとなく心用意はしてきたのだが、畑仕事をしていても、畦でおむすびを食べていてもフッと思うのは善光寺詣でのことだった。無事に望みがかなえられるかな、お金は足りるのかな。長い間の留守中、家は大丈夫かな、そんなことがいつもいつも頭をかすめるのだった。


 鎮守様へも菩提寺様へもお暇の挨拶はしてきた。お墓詣りもしたし、近くの道祖神様にも道中の安全を頼んできた。親戚衆は送別の宴を設け、口々に「元気でな」と言ってくれた。いよいよ敷居を跨ぐときは家に向かってしっかり頭を下げてきた。


 出立の日は一行の仲間とは前からの約束で、部落外れの庚申塚に集まった。みんな「ついに、この日が来た」と感慨深げだった。姉と私と仲良しの美祢ちゃときよちゃは村外れの峠まで送ってくれた。他の仲間たちもみんなそんなふうだった。峠で立ち止まり、そこでお互いに見えなくなるまで、いつまでもいつまでも手を振って別れたのだった。私は思わずつえを握り締めて「さあ行くぞ」と自分に言い聞かせたが、他の仲間たちもみんなそのようだった。誰もニコニコしながらも、泣きそうな顔だった。


  行き斃れも覚悟して

 善光寺詣りを決意するまでには、私なりに随分迷った。だが、もしお金が足りなければ泊るところは、たとえ野宿でも橋の下でもお堂でもいとわない。その覚悟はできている。なにも私ばかりではない。同行の仲間たちだって裕福な人なんてひとりもいないのだ。


 道中、お接待や善根宿(ぜんこんやど)(漂泊の信徒または行き暮れた旅行者を宿泊させる無料の施行宿(せぎょうやど))のお世話にならないとも限らない。遠い道程を思うと、無事帰れるのか心配だ。行き斃れということだってあるのだ。

(2012年3月17日号掲載)

 
美しい晩年