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01 「戦争の語り部」に 〜悲惨な体験を次世代へ〜

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 1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争開戦から、早くも70年の歳月が流れました。私の子ども時代はまだ日露戦争の戦勝機運が色濃く残っており、米・英・ソの列強に"追い付け追い越せ"と軍国主義一辺倒でした。大人たちの勇ましい戦話(いくさばなし)に、おのずと子どもの遊びも戦争ごっこ、軍隊ごっこばかりでした。


 こういう状況ですから軍隊に憧れるのはごく自然なことで、私は旧制長野中学(現長野高校)から横須賀海兵団に入団。1937(昭和12)年、21歳で海軍の戦闘機パイロットとなり、中国戦線を皮切りに南京攻略、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島争奪戦など過酷で悲惨な体験をしてきました。


 「九死に一生」という言葉がありますが、「零戦(零式艦上戦闘機)」に乗っての戦闘は「十死に一生」のすさまじさで、私も死を覚悟したことが3度ありました。


 戦場の交戦兵に勝ち負けはありません。相手を倒さなければ、自分がやられてしまうのが戦争です。敵機を撃ち墜とした直後は、「墜とされなくて良かった」という安堵感と「勝った」という優越感が湧いてきます。


 しかし、それは一瞬で、その後は"人殺し"をしたのですから相手の苦痛と恨めしそうな形相が脳裏に焼き付き、「あのパイロットにも家族がいただろう」「死にたくなかっただろうに」という虚しい思いにとらわれました。


 戦後は「零戦」に搭乗していた職業軍人ということで「公職追放」の対象となり、しかもGHQからもにらまれ恐怖にさらされた日々でした。妻と共に不毛の時を乗り越えた1968(昭和43)年、現在の「学校法人浅川学園ひかり幼稚園」の前身である「北部愛児園」を設立しました。


 ずっと封印してきた戦争体験を語るきっかけになったのは、1991(平成3)年の「湾岸戦争」です。ミサイル攻撃のテレビ報道に、若者たちが「花火のようできれい」「テレビゲームみたい」などと言っているのを目の当たりにして「これはいかんぞ!」と強い危機感を覚えました。


 その時から、戦争の真実を次世代へ伝えるのが生存者としての使命だと感じ「戦争の語り部」になろうと決心しました。今の日本の平和は兵士や民間人合わせて300万人以上もの犠牲の上に成り立っています。戦争体験が風化しつつある昨今ですが、二度と戦争を起こさないために、私の95年の人生体験から平和の尊さを感じ取っていただければ、と願っています。

(聞き書き・松原京子)

(2012年4月21日号掲載)


原田要さんの主な歩み


1916  大正5  上水内郡浅川村西条に誕生

1923   12 浅川尋常小学校に入学

 29  昭和4  長野中学(現県立長野高校)入学

 33    8  横須賀海兵団に入団(水兵)

 37     12 第35期操縦練習生を首席で卒業 第12航空隊付で中支戦線に出動。パネー号事件に参加

 41     16 富岡精と結婚 「蒼竜」に乗り組み、ハワイの真珠湾攻撃に参加

 42     17 インド洋作戦を経て、ミッドウェー海戦に参加 「飛鷹」に乗艦 ガダルカナル島攻撃に参加。空中戦で被弾、重傷を負う

以後、横須賀鎮守府付・横須賀航空隊付教官に着任

 45   20 北海道千歳基地にて「秋水」塔乗要員の指導教官に 同地で終戦を迎える。帰郷以後、酪農をはじめ八百屋、本屋、牛乳販売店などを営む

 65     40 浅川団地自治会長に就任

 68     43 託児所「北部愛児園」を開設

 72     47 学校法人「浅川学園ひかり幼稚園」を開設、理事長に就任

 91  平成3 真珠湾開戦50周年式典に招待され、訪米

 93       5 「教育功労」で知事表彰

 95       7 『平和への道のり 零戦の操縦機から幼児教育の場へ』を発刊

 98    10 『波乱の航跡八十年 零戦の操縦席から幼児教育へ』を発刊

2001   13 開戦60周年で英国記者のインタビューを受け、訪英

  3   15 内閣府の「エイジレス章」受章

  7   19 訪米し、米国博物館へ従軍品を寄贈

 10     22 『元零戦パイロット九十余年を生きて 世界平和への証言』を発刊

 11     23 『零戦 老兵の回想』を発刊

 
原田要さん