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47 「戒壇めぐり」から思うこと6

 〈承前〉旅装束について続ける。


 風呂敷と荷物

 今日では風呂敷の用途や使用はめっきり減ってしまった。リュックサックの類が登場するまでは、日本の生活文化を象徴するような存在だった。風呂敷のない生活は考えられないほどに重宝この上ないものだった。


 大小様々、買い物でも本を包むにも、手に提げてよし、肩で担ってもよし、富山の薬屋、越後瞽女、洋服屋も、みんな利用してきたものだった。荷の形・大小は問わない。その上不要のときは折り畳みが自在という次第だ。


 善光寺参詣者の場合も荷物の大小、軽重を問わず、風呂敷以外のものは考えられなかった。荷物の中身は着替え、常備薬など軽いほどいいわけだが、出立前を想像すると囲炉裏端で大風呂敷を広げて、あれも入れ、これも入れたり出したりしている様が目に浮かぶ。

 大きな風呂敷包みは、真ん中を紐で結び、両肩に背負って歩くのだ。


 位牌も負って

 荷物の一つに位牌を入れたという話-。

 前にも述べたのだが、私がこうして善光寺詣でが適うのは、おばばのおかげだ。あれほど善光寺で阿弥陀様の膝下に跪くことを願っていたおばばだったが、おじじの介護やら何やらに明け暮れて、ついには自分の足腰が立たなくなったのだった。小銭を大事に貯めていたのだが、私がそれを頂いて出掛けることになったのだ。


 私はそのおばばをどうしても連れていきたい。柿渋で作ったゴワゴワした障子紙に、おばばの位牌を包んだのはそのためだ。どんなに雨が降っても塗らさないように護っていくのだ。善光寺のお御堂では位牌をしっかり阿弥陀様に向けて、おばばと話し合いたいのだ。


 島木赤彦にはこんな歌がある。

おのが子の戒名もちて雪ふかき信濃の山の寺に来にけり


 山の寺はいうまでもなく善光寺のことだ。愛児の位牌を善光寺に納めに来たというのである。

 松本市和田の川崎杜外はこう歌う。

吾子の骨入れたる箱を抱き持ち朝のみ堂のきざはしのぼる


 接待

 「一宿一飯の恩義」と言う。一晩泊めてもらい、食事を振る舞われることを言うのだが、なにも博徒仁義の世界でなくとも昔はそんなことがいくらもあった。


 私も浪々の生活に明け暮れたころは、転がり込むようにして一夜の宿を乞うたことがある。ありがたかった一夜を何回思い出したことだろうか。当時はまだ囲炉裏火を頼りにした時代だったが、後年その家の近くを通った時、思わず掌を合わせたことを思い出す。


 こんなこともあった。山村を歩いている時、小川をちょっと堰き止めて洗濯をしている小母さんと話しこむ機会があった。そして汗だらけのシャツを洗ってもらい、涼しげな縁側でお茶までいただいた。太平洋戦争直後の貧しい時代だった。80年の生涯を思い返してみると、無頼の徒であった時代、私はたくさんの接待をいただいてきた。


 昔は、例えば神坂峠(東山道=中津川市〜下伊那郡園原)、和田峠(中山道=下諏訪宿〜和田宿)、碓氷峠(中山道=軽井沢宿〜上州坂本宿)など大きな峠には、接待所・施行所の名で旅人への施しの施設があったのだ。寒い折には火を焚いて暖を馳走し、お粥一椀、牛馬にも飼葉が提供されてきたのだった。


 四国遍路では、橋の下で痛みが走る足をさすっている女性を見つけて、近くの畑で草取りをしていた中年婦人がやってきて「足を揉みましょう」といって手際よく揉みはじめ...、女性はただただ「ありがとう、ありがとう」を繰り返し...、やがて涙を拭いながら歩き始めた...そんな光景を見たこともある。


 私は全国いたるところでそんな話を聞いてきたし、いま辿っている善光寺への道筋でも、幾度も体験し、見聞してきた。貧しくとも豊かな時代だった。

(2012年4月14日号掲載)

 
美しい晩年