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02 生いたち 〜後妻の祖母に愛され いたずらは人一倍〜

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 私は1916(大正5)年、上水内郡浅川村(現長野市浅川)に父誠一、母操の長男として生まれました。養蚕が盛んな地域で、家の周りは桑畑ばかりでした。私の家も祖父の代から養蚕を始めた純農家で、子どものころは桑摘みの手伝いをよくやらされたものです。


 祖父は、分家に出て、畑や山などを全部自分で働いて買ったという努力家でしたが、長男が日露戦争の二〇三高地で戦病死したこともあり、私の父を溺愛したそうです。そんなこともあり、わがままな息子に育った父は、若いころから名誉職に就くのが好きで、村会議員や消防組頭、在郷軍人会会長などをやっていました。その上、無類の酒好きで、家庭を顧みず、祖父からは父に対する愚痴をよく聞かされたものです。


原因不明の頭痛

 実の祖母は、私が生まれる前に早く亡くなってしまい、後妻のおばあさんがとてもかわいがってくれました。私が2歳の時に弟が生まれ、母親の乳房を奪われた私に、出ないおっぱいを吸わせて育ててくれたそうです。明治初期の人ですから学問は全然なく、字も書けなかったのですが、根っからのお人好しでとても信仰心が厚く、近所の人から「仏のおフサさん」と言われていました。


 私が幼いころ原因不明の頭痛に悩まされていた時、何時間も神仏に祈りを捧げてくれたことが印象に残っています。今思うに頭痛の原因は、頭が大きくて難産で死産直前だった後遺症のようですが、おばあさんの愛情が神仏に通じたのか、小学校入学後は頭痛の発作が起こりませんでした。


 母は学校にも行っておらず無学でしたが、弱い人の面倒を一生懸命みてあげる優しい人でした。


 1923(大正12)年、地元の浅川尋常高等小学校に入学しました。学校は小高い丘の上にあって、曲がりくねった雑木林の山道を2キロ近く歩いて登校しました。通称"伺去(しゃり)のゴタネバ"といわれる土質は、雨降りや春の雪解け時は履物に土が粘りついて難儀したものです。


 勉強嫌いの私は人一倍のいたずらっ子で、危険な遊びが大好きでした。ある時、校庭のブランコをあまりにも高くこぎ過ぎて落下。気を失って気が付いたら真上に校長の顔があり「何をやっていたんだ!」と殴られ、家に帰って親父にもたたかれました。村の中ほどにある東光寺という廃寺の天井裏から落ちて大けがをしたこともありました。


 また当時は日露戦争の余韻が色濃く、軍国主義一辺倒でしたので、隣村の子どもたちと陣取りなど戦争ごっこや軍隊ごっこの遊びに明け暮れ、傷とけんかが絶えない毎日でしたね。


関東大震災を体験

 そんな日々を過ごしていた9月1日の昼ごろ、関東大震災が発生。電信柱が5メートルくらいも揺れ、庭の肥だめの中味が波打って飛び出すほどの激しい揺れに襲われました。授業が半日でしたので、家で昼ご飯を食べていた私は、茶わんと箸を持ったまま庭へ飛び出しました。祖父が倒れかけている蚕の棚を必死に支えていた姿を見て頼もしく、度胸の良さを幼心に鮮烈に記憶しています。


 この地震による死者・行方不明者は10万人以上。大火事になり、東京で働いていた近所のおじさんが長野に戻ってきて、東京ではパニックになり、朝鮮人が井戸に毒薬を入れたというデマが飛んで、大勢の朝鮮人が虐殺されたという怖い話を聞かされました。

(2012年4月28日号掲載)


=写真=父母と私