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03 長野中学 〜学業はビリの北組 3年で中退 海軍志願〜

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 1926(大正15)年12月25日に大正天皇が崩御され、裕仁親王が皇位を継ぎ元号が「昭和」に改められました。喪が明けた28(昭和3)年11月10日に新天皇が即位され、その夜は長野市でも提灯行列が行われました。


 私が旧制長野中学(現長野高校)に入学した29年には、アメリカに端を発した世界恐慌が起こりました。アメリカへ生糸を輸出していた日本は大打撃を受け、大量の失業者が街にあふれ、さらに翌々年の冷害による大凶作で、東北などでは娘を色街へ身売りするという悲しい出来事があったようです。


 養蚕不況の影響で、祖父の代から養蚕をしていた我が家もリンゴ栽培に転換しました。31年に満州事変が始まり、昭和初期は暗い世相でしたね。

浅川尋常小から3人


 私は小学校時代はガキ大将。勉強は不得手と言いながらも成績は甲、乙、丙のうち甲だったので、親父の勧めで長野中学へ。浅川尋常小学校から進学したのは、本家のまたいとこ・原田環と北郷の友人の3人だけでした。


 長野中学校創立30周年の佳節で様々な催しが行われたようですが、あまり覚えていません。1年生の時は下駄履きの和服姿で、2年生から洋服になり、軍隊払い下げの靴底に鋲が打ってある革靴をガチャガチャと音を立てながら、歩いて約1時間半の道のりを西長野の学校まで通いました。


 近在から集まった生徒は優秀な連中ばかり。私はまぐれで1回だけ200人中80番になったことがありますが、いつも最後の方にぶら下がっていました。当時のクラス編成は成績順だったので、いつもビリの北組でした。


 担任の宮川礼治郎先生からは国語・漢文を教えていただきました。当時は全員の先生にあだ名を付けて呼び合ったものですが、「神風」を信じていた時代ですから、(千曲市の)八幡神社(武水別神社)の宮司さんだった宮川先生だけは畏れ多くて付けませんでした。


 佐々木哲郎校長は運動奨励のために、全生徒をいずれかの運動部に所属させる方針を打ち出していました。蹴球(サッカー)部もあったんですよ。私は全国制覇を遂げた柔道部に憧れて入部し、体を鍛えました。


 戦時下の長野中学では、天皇の写真が飾られた「奉安殿」に朝夕最敬礼して登下校。軍人に忠義・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目を説いた「軍人勅諭」を暗唱させられ、陸海軍関係者が来校して戦意を高揚する講演会が行われました。また銃剣術の練習など、軍事色一辺倒でマインドコントロールされ、次第に戦争に引き込まれていきました。


またいとこと比較

 またいとこの環君は、長野中学を卒業し後に大蔵官僚になった青木一男さん以来の秀才ともいわれ、松本高校から東大に進み、最高裁判所の判事まで務めました。「環を見ろ」と常々比較されて育った私は万年北組で、「これでは将来やっていけない」と、すっかり自信を失いました。


 しかし、学業がダメなら、恵まれた体と闘争心で活路を見いだす以外にないと決意。我が家はそのころ、父の放蕩により経済的にもピンチでしたので、少しでも家計を助けようと、中学を3年で中途退学し、海軍に志願しました。海軍を選んだのは、陸軍に比べてスマートでカッコ良く、しかも小遣いがもらえ、世界中を航海できるという、単純な動機からでした。

(聞き書き・松原京子)

(2012年5月12日号掲載)


=写真=長野中学の入学時(円内が私)


 
原田要さん