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04 横須賀海兵団 〜4等水兵として訓練 起床〜消灯 分刻み〜

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 1933(昭和8)年、私は軍隊に応募できる17歳になり、国語、数学の簡単な試験を受けて合格。4等水兵として、横須賀海兵団に入団しました。


 入隊した日、支給された軍服がズボンも上着もブカブカの特大で、手も足も出ない、まるで浅野内匠頭のような格好になってしまいました。どうやら、長野で志願した折、身体検査で試験官が誤ってサイズを10センチ多く記入したらしいのです。


 ところが、これがラッキーな結果をもたらしたのです。席順が体の大きい者からとなっていたので、私は体が小さかったのに、身長が班で2番目に登録され、海兵団にいる新兵教育の間、教班長のすぐ横となったことで目を掛けられました。


人情厚い教班長

 教班長の阿部竹五郎さんは北海道の漁師上がりの苦労人で、情け深く理解のある人で、何かとかわいがってくれました。教班長係にしてもらったので、カッター漕ぎの時など舵を取る教班長のそばにいるだけで、オールを漕ぐ苦労もせずに済みました。


 当時、4等水兵の訓練は厳しく 、文字通り「月月火水木金金」と、休みなく働かされました。後に発売された海の男の艦隊勤務を歌った同名の軍歌は、広く国民に親しまれ大ヒットしました。寝ている時以外は起床から消灯まですべて分刻みでスケジュールが組まれ「一死奉公」の信念をたたき込まれました。


 しかし陸軍と違って古参兵がいないので、いじめなどは無縁で精神的には楽な兵営生活でした。ただ、育ち盛りで、食べることと寝ること以外楽しみがなかったので、引率外出の時に渡された小遣い30銭は、入浴の2銭以外すべて食べ物に費やしたものです。


 4カ月の新兵訓練を終えた9月、3等水兵として各艦に配属されるのですが、その時に教班長がかつて乗っていた駆逐艦「潮(うしお)」に乗るよう取り計らってくれました。乗艦したら「阿部さんの教え子が来たぞ」と、同期の仲間には申し訳ないくらい特別扱いでかわいがられ、ほとんど殴られたこともありませんでした。


軍隊は「先頭第一」

 駆逐艦に乗りたてのころ、こんな出来事がありました。毎朝、一番若い我々が伝馬船を漕いで食料をもらってくるわけですが、暴風雨で海が荒れたある日、上官が新兵を集めて「誰か行く者はいないか?」と聞きました。皆嫌だから尻込みする中、私は真っ先にパッと手を挙げ「はい、行きます!」と。「おう、よし、お前行け」となりました。


 ところが海に漕ぎ出した途端、突風にあおられ、どんどん沖に流されてしまいました。艦上ではそうなることはお見通しで、「おお、困ってる困ってるぞ」。結局、内火艇で曵航され帰ってきました。戻ってみると皆が総員集合を掛けられ、直立不動で立っていました。


 私は引っ張り出され、怒られるに違いないと覚悟していましたが、怒られるどころか「こういう勇敢な者がいる。こういう者が戦争で使えるのだ」と逆に褒められ、「他の連中は何だ!」と皆は怒られてしまいました。


 軍隊という所は何でも「先頭第一」が尊ばれ、結果を考えず先にパッとやった方が受けも良いのです。この一件で私は評判が良くなり、以来、何かあると「原田」「原田」と呼ばれるようになりました。ガキ大将のころからの向こう見ずな性格も上官たちに気に入られた理由の一つだったと思います。

(聞き書き・松原京子)

(2012年5月19日号掲載)


=写真=横須賀海兵団に入団した私

 
原田要さん