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05 大空への夢 〜飛行機乗りに憧れ 親の同意偽造し受験〜

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 駆逐艦「潮」での生活は、明けても暮れても大砲の手入れやデッキの清掃、そして訓練の毎日でした。駆逐艦は砲術学校か水雷学校のどちらかを卒業してこなければ長く居られない場所でした。


 ですから当然、「砲術学校に行って大砲の勉強をして来い」と言われました。でも幼いころからずっと飛行機乗りになりたいと憧れていた私は、大砲も魚雷も好きになれませんでした。班長にその思いを伝えましたが「お前みたいなボンクラに飛行機乗りなんてなれるわけがない。それより砲術学校へ進め」と説得されました。


 分隊長まで反対


 それでも私が聞かないものですから、分隊長まで話が伝わり、ついに分隊長が私を呼んで「お前、そんなこと言ったってパイロットには簡単になれるものではないぞ。それより大砲で俺の伝令をやって、それから砲術学校に行って、でかい40センチ砲を撃てばいい」と言われました。


 私が海軍に入る数年前から、山本五十六海軍航空本部技術部長(後の連合艦隊司令長官)が「これからは航空機が戦争の主力になる」と言われていました。だが、当時の海軍上層部は「大艦巨砲主義」で、航空機の重要性を正しく認識していなかったようです。


 パイロット一人を養成するのに、ものすごく国費がかかるということもあり、希望者が多くてもパイロットへの道は狭き門で、よほどの適性がある人でないとなれませんでした。


 それでも大空への夢は断ち難く、上司の反対を押し切って受験しようと思いました。それには親の承諾書が必要でした。親父に話したところ「お前は農家の長男だから、そんな危ない飛行機に乗ってはいかん」と許してもらえませんでした。


 そこで隣村の若槻出身の粟野原仁志大佐に「親がどうしても駄目だと言って承諾書を書いてくれません。何とか説得していただけませんか」と鎌倉まで頼みに行きました。熱意にほだされたか「よし、俺からお前の親父に手紙を書いてみよう」と快諾してくれましたが、結局駄目でした。


 粟野原大佐から「お前の親父は頑固で、俺の言うことを聞かない」と言われ、たまに飛行機に乗せてもらえるという航空兵器術練習生の道を勧められました。航空兵器術というのは、今で言う整備で、飛行機に爆弾を付けたり、機関銃を掃除して付けたり、戦闘機に付いている固定銃を調整したりする仕事でした。整備員だったら親父の許可も要らないので受験し合格。1935(昭和10)年4月、横須賀航空隊に航空兵器術練習生として入隊しました。


 最初は整備員で

 ここで生まれて初めて九〇式機上作業練習機に乗せてもらいました。地上を飛び立った瞬間の感激は今でも心に焼き付いています。しかし乗せてもらったのは数回だけで、搭載兵器の整備作業をする毎日でした。


 そんな日々を半年間繰り返し練習生を卒業した私は、2等航空兵として日本で一番古い航空母艦「鳳翔(ほうしょう)」への乗り組みを命じられました。ここでも飛行機に乗せてもらえず、一般の兵員と搭乗員の待遇の違いをまざまざと実感させられました。


 戦闘機の連中は威勢よく勇ましい人たちばかり。やはりどうしても飛行機乗りへの思いを抑えることができず、親に相談しても無理なので、自分勝手に同意書を作り、三文判を押して操縦練習生受験の願書を出してしまいました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年5月26日号掲載)


=写真=2等航空兵として乗り組んだ航空母艦「鳳翔」

 
原田要さん