生きてわれ聴かむ響かみ棺を深くをさめて土落す時
われや母のまな子なりしと思ふにぞ倦みし生命も甦り来る
窪田空穂
◇
悲しい歌だ。母親の亡きがらを納めた棺が、深く掘られた穴に納められ、その上に土がかぶせられていく。

棺の板と土の触れる非情な音。生きているうちに、こういう響きを耳にすることがあろうとは...。納得できるはずもない。しかし、現実を受け入れるしかない。
あれこれ嘆き悲しんだ末だろう。ようやく自分なりにたどり着いた心境が、2首目からは読み取れる。
私が最も母に愛された子供だったのだと思うにつけ、疲れた命も元気を取り戻して来る、というのである。
1877(明治10)年6月8日、空穂は東筑摩郡和田村町区、今の松本市和田の農家に生まれた。
このとき父は42歳で母は40歳。当時とすれば高齢になっての出産だ。長兄も21歳になっており、母親ちかにとって空穂、本名通治(つうじ)は孫のようだった。何かにつけて「つう、つう」とかわいがる。通治もすっかり甘えて育つ。

松本市街地の南西に開けた田園地帯、ここが和田だ。北西寄りを北アルプスから梓川が流れ下り、東を木曽谷に発した奈良井川が北上する。遮るもののない広々した平地を貫く幹線道路、山形街道から少し奥まった集落の一角に、生家があった。
松本平に独特の本棟造りであり、ゆったり傾斜した屋根の頂には「すずめおどり」と呼ばれる飾りが映える。土間、座敷、ぬれ縁などの一つ一つから、歳月の重みが伝わってきた。
南側の庭に空穂が「この家と共に古りつつ高野槙...」と歌ったコウヤマキの巨木がそびえ立つ。そのすぐ近くに和室2間の離れがあり、父母が晩年を過ごした。空穂が母の最期をみとったところでもある。

97年の夏、父親から「母危篤」の知らせを受け、空穂は故郷に駆け付ける。21歳、文学を志して家族に無断で上京したままだった。そのうえ自分の才能に自信を失い、大阪の米穀仲買業の店に住み込みで働いている時だった。
母の寝所で蚊帳越しに向き合う。病の床でも母親は、いまだ身の定まらない末っ子が心配でならない。「もう会えねかと思った」とつぶやいた。
空穂にとって母との今生の別れがどれほど悲しく、切ないものであったか察せられる。それから3年後、新たな志を抱いて再び上京した。
やがて結社誌『国民文学』を拠点に歌人として大成する。さらに国文学者として古典研究に大きな業績を残す、その一歩を刻んだのだった。
亡き母を慕う空穂の歌としては、むしろこの1首の方がよく知られている。
鉦(かね)鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか
巡礼者となって鉦を鳴らしながら、信濃の国をどこまでも歩いて行けば、生前のままの母を目にすることができるだろうか。
「実情のにおいがしない」と、空穂自身の評価は低かったが、これまた哀切極まって胸を打つ。
〔国民文学〕今日まで続く短歌雑誌。1914(大正3)年6月、空穂がそれまでの結社十月会を母体に創刊。文芸総合雑誌から短歌誌へと移る。
(2012年5月12日号掲載)
=写真1=本棟造りの空穂の生家
=写真2=母をみとった離れ