記事カテゴリ:

48 「戒壇めぐり」から思うこと7

 〈承前〉何の縁もゆかりもない人に、親切にしてやる、施しをする、もてなす、そんな風習はいつごろからあったものか、人間本来のものとして備えてきたものか、母性本能のようなものが次第に広まり育ってきたものか、それとも-。日本という国の自然と風土、民衆のこころ、にも思いが及ぶ。


 いま、善光寺戒壇めぐりの闇から闇の世界のなかで、大きな錠前に触れながら...阿弥陀さまの膝下(しっか)に跪く思いのなかで...こうしてここまで来られた悦びのなかで、道中での様々のことが込み上げてくる。ありがたかったそのことの一つ-。


 善根宿

 松本から刈谷原峠を越えて立峠へ向かう途中(現松本市四賀)、小雨降る日の暮れ方だった。緩やかな坂を下ってきた主が私たち一行4人を見つけると、「善光寺詣りの方たちですか。よろしかったら今日は母親の命日なので、宿をお貸ししたいのですが...」。ためらう私たちに「さぁ、どうぞどうぞ、見苦しい所ですが...」と招き入れてくれたのだった。草鞋を脱ぎ、出されてあった手水鉢(ちょうずばち)で泥足を洗い、「美作の津山から参りました。お世話になります」と挨拶を申し上げた。


 こんなとき、旅人はまず仏壇に掌を合わせるのが礼儀だということを聞き知っていた私たちは、4人並んで線香をあげ念仏を唱えた。


 後日、善光寺の宿坊で聞いたのだが、こんな接待をしてくれるところを「善根宿(ぜんこんやど)」というのだそうだ。聖地への巡礼信徒または行き暮れた旅行者を宿泊させる、無料の施行宿ということだった。囲炉裏の火を囲んで話がはずんだ。明日は麻績宿を経て猿ケ馬場峠を越え、稲荷山宿、篠ノ井追分までは十分に行かれることを確認して、本当にゆっくり休ませてもらった。翌朝近くの鎮守様をお参りしてから朝食をいただき、私たちは家族中に見送られて善根宿を後にした。4人もで信じられないほどにありがたい一夜だった。


 歩く宗教者たち

 「善根宿」という名で呼んだのかはともかく、こうした善意の宿の提供は全国各地にあった。貧しい庶民を対象としたものがほとんどであるが、そんな信仰遺蹟に目を向けてみると、「千人宿供養塔」「廻国供養塔」があることに気付く。


 千人は一つの目安であって必ずしも数を言うのではなく、多くの敬虔な信徒、とりわけ歩く宗教者たちをお泊めすることを発願してのものであろう。むろん、見返りを求めるのではなく、その人の事跡を見るとみずからは清貧の徒といってよく、日常生活の余力は施しのために捧げてきた生涯といってよさそうだ。いかなる思想の洗礼を受けたら、そうなるのであろうか。働き詰めに働くばかりの時代、学校もなく、その道の識者も、書物、情報も乏しかった時代に-。


 「廻国」というのは、諸国巡礼の略。巡礼となって諸国の札所や霊場を巡り歩くこと。六十六部(略して六部とも)はその代表例。典型的な歩く宗教者たちだ。


 「六十六部」は諸国巡礼の一つ。書写した法華経を全国六十六カ国の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴する行脚僧。鎌倉末期から始まり、次第に庶民層にまで及んだ。白装束に笈摺(おいずる)、錫杖(しゃくじょう)のいでたちだった。


 このほかに伊勢講、富士講、善光寺講などのように、全国の名のある社寺には布教活動を主とする御師(おし)と呼ばれる集団があった。お札や暦配り、参詣者の宿泊などの便宜を図る役目も負っていた。


 善光寺への善男善女たちは、各地、各層の宗教者たちと行き交ったり、時には語り合い連れだって歩いたことであろう。「どちらから、これからどちらへ」という挨拶から始まり、様々な情報を得て、まさに旅は人生、人生は旅の思いを実感したことだろうと思う。むろん、一般通行人や牛馬との行き交いも多かったはずだ。


 そんななかで善意に縋ることに徹し、無銭飲食を最初から当て込み、善根を頼りにした人たちもいた。乞食(こじき)遍路と呼ばれた人たちがそれだ。

(2012年4月28日号掲載)

 
美しい晩年