記事カテゴリ:

06 霞ヶ浦航空隊 〜そうそうたる指導者 おかげで首席で卒業〜

06-harada-0602p1.jpg

 日本海軍の全部隊から1500人ほどともいわれた受験者の中で私は狭き門を突破し、何とか第1次試験に合格。150人の練習予定者の1人として1936(昭和11)年6月、霞ケ浦航空隊に入ることができました。


 入隊すると、いろいろな機械を使って平衡感覚を調べたりしました。今でいう宇宙飛行士になるための適性検査のようなものですね。私は呼吸器が強かったので、「高高度」と呼んでいた5000メートル以上に上がる時は酸素マスクをする決まりなのに、6000メートルでもマスクは要りませんでした。血圧もやや低い方なので、パイロットに適した身体だったようです。100人の中に残り、晴れて操縦練習生になりました。


 練習生は飛行機に乗せて訓練し、さらに選抜されていきます。まずは初歩練習機です。私は当時、日本で1、2番の名パイロットといわれた江島准士官に指導していただくことになりました。



連日、機上で怒鳴られ

 ところが、地上では穏やかな江島さんが機上になると、人間が変わったように連日、烈火のごとく怒鳴りつけて指導するのです。さすがの私も自信を失ってしまい、ある日「もうパイロットにはなりたくありません。整備に戻してください」と申し出ました。すると江島さんは「お前、何言ってるんだ。憎らしくて叱ってんじゃないぞ。お前には才能があるから、引き出してやるために叱ってるんだ。しっかりやれ」とハッパを掛けられました。ここで意志を翻したら男らしくないと奮起。叱られたら励ましだと思って努力を続けました。


06-harada-0602p2.jpg

 そのうち、操縦する上で大切なポイントに気付くことができました。今までは何人もの訓練生が乗って、癖のある飛行機を自分が動かすのだという驕(おご)りがありましたが、そうではなく、飛行機と一心同体になって動くという素直な気持ちが大事だということにです。やがて単独飛行が許可され、初めて一人で飛んだ時は、自由に翼を広げて空を舞う鳥になったような気分でうれしかったですね。


 次の中間練習機はより馬力のあるスピードの速い飛行機で、いろいろなスタント(曲芸)も習うことになりました。この時は、艦上爆撃機で一番の暴れん坊といわれた福永教官から「旺盛なる攻撃精神と確固たる必勝の信念で戦うこと」を強く仕込まれました。


 そして最後の実用機は、「雷撃の神様」と呼ばれた魚雷を落とす名パイロット・村田重治少佐に教わりました。そうそうたる人物から訓練を受けることができ、本当に恵まれていたと思います。


 「こいつは長生き」

 8カ月の厳しい訓練でどんどん振るい落とされ、最後まで残った26人の練習生に優劣はありませんでした。最終選抜では、東京大学の心理学の先生が「手相」と「骨相」で鑑定を行いました。私を見るなり「こいつは長生きしそうだ!」と、OK。この言葉は当たって、おかげさまで95歳まで元気に長生きさせてもらっています。


 最後に残った練習生のうち、まぐれなのか、たぶん素晴らしい教官たちの指導のおかげでしょう、私はトップの成績となり、卒業飛行の空中分列式では先頭で飛ぶことができました。天皇陛下から恩賜の時計を頂きましたが、それには仲間たちから「祝同期生一同」と刻んだ磁石を付けてもらいました=写真下。信濃毎日新聞には「原田一等兵首席で卒業、海國信州の誇り」と報じられ=同上、あれほど反対していた親父も飛行機乗りになったことを大変喜んでくれました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年6月2日号掲載)

 
原田要さん