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006 パリ 壁抜け男 〜パリ案内のサプライズ〜

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 「鼻眼鏡をかけて、黒く短い山羊ひげを生やしたこの男は、登記庁の3級役人であった」。フランスの作家マルセル・エイメの短編小説『壁抜け男』の冒頭の一文だ。主人公の名はデュティユル。40代の独身男。彼は"特殊な能力"があることに気付いていたが、使おうとは思っていなかった。


 そんな中、彼の上司の次長が異動した。新任の次長の野心に仕事場の雰囲気が変わり、振り回されるデュティユル。揚げ句の果てに彼は事務室横の薄暗い部屋に押し込められてしまう。一計を案じた彼は特殊能力を使う。その能力とは、するりと壁を抜けられるものだった。


 彼は次長の部屋の壁に入り、咳払いをした。振り向いた次長は恐怖に取りつかれるが、気を取り直してデュティユルの部屋へ。彼は座って仕事をしている。それが毎日繰り返されると、さすがに体調を崩し精神病院へ。しかし壁抜け男に心の平穏は訪れなくなっていた。


 彼の心を捉えたのは窃盗だった。金庫破りのたびに「狼男」のサインを残していたため、マスコミは書き立てた。警察をも手玉にとった壁抜け男・狼男に市民は拍手を送る。絶対王政を経てフランス革命を見てきたパリっ子たちは、悪役やギャングが主人公のピカレスク(悪漢小説)が大好きだ。 デュティユルは、何食わぬ顔でまじめに登記庁での仕事を続けた。箔を付けるために逮捕されて刑務所に行くも、脱獄などはお手の物。何度も逮捕、脱獄のいたちごっこだった。


 最後はひげもそり、変装してアパートに住みついたが、ついに画家が正体を突き止める。


 壁抜け男はエジプトへ脱出するために出発しようとした日、一人のブロンド美人に出くわした。冷酷で嫉妬深い男と結婚していた美人は、夫が外出する際には部屋に閉じ込められ幾重にも鍵を掛けられてしまう。その美人に愛の告白をした彼は、とらわれの女の部屋に入り込み愛し合う。だが翌日、頭痛を覚えた彼は誤って間違った薬を飲んでしまう。すると、壁を通り抜けようとした時に半身が内部に取り残された。


 これが、原作の筋である。この物語はかつて日本でも「劇団四季」が舞台上演した。モンマルトルの丘の一角では、このオブジェ=写真=がフランス人たちの名所になっている。


 だが、日本人観光客でこの話を知る人は少ない。だから私は友人たちをパリに案内するとき、サプライズとしてここを紹介することにしている。


 頂上のサクレクール寺院やテルトル広場の喧騒とは打って変わって静かだが、パリっ子たちが親から伝え聞いた話を得意そうに話し合っている光景をよく見掛ける。そんな素顔のパリっ子を見ていると、自分が市民に溶け込んだ気持ちにもなる。

(2012年6月16日号掲載)

 
ヨーロッパ美の旅