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07 中国で実戦 〜米国の砲艦を誤爆 南京では処刑目撃〜

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 第35期操縦練習生を卒業した私は1937(昭和12)年、大分県の佐伯航空隊に行き、第12航空隊所属となりました。


 当時、戦闘機の場合は、学校を出てから実用機で1年半以上訓練し、500時間の飛行時間を持っていないと戦争で使いものにならないといわれていました。


 ところが、その年の7月7日に勃発した盧溝橋事件で支那事変(日中戦争)の戦局が差し迫り、約8カ月の厳しい訓練で飛行時間300時間の段階で10月に中国大陸へ出征しました。第12航空隊の仕事は、首都・南京を占領するため、陸軍が進撃しやすくなるように援護することでした。連日、九五式艦上戦闘機の両翼にそれぞれ60キロの爆弾を付け、地上攻撃をしました。


国際問題に発展

 南京が陥落する前日の12月12日、われわれの飛行部隊は、中国の敗残兵がジャンクという小舟で重慶方面へ揚子江を大挙して逃げていくという情報をキャッチし、ただちに24機が飛んで行き、爆弾を次々と舟に命中させました。


 ところが、その舟の中に第三国だったアメリカの砲艦「パネー号」と輸送船2隻も交ざっており、交戦国でない船を沈めてしまったということで、一触即発の国際問題にまで発展してしまいました。

 私も一番でかい船を狙う方が命中率も良いと思い、撃ったのがパネー号でした。実質的にアメリカは中国を援助していましたが、抗議を受けた日本はアメリカに陳謝し、1321万4千ドル(当時のレートで約4580万円)の損害賠償金を支払い、4人の指揮官を戒告処分にすることで、ようやく事態を収拾させました。


 3等空曹の私も事情聴取を受け、在隊わずか3カ月足らずで翌年の1月5日、長崎の大村航空隊に転勤を命ぜられました。突然内地へ戻されたのは、パネー号への誤爆が原因だったと思います。内地に戻ったら「良くやった。あれで当たらなければ日本の名折れだった」と褒められ、その後、勲章ももらいました。表向きだけの処分だったのですね。


 話が前後しますが、南京滞在中に非番で外出していた時、河畔で中国の便衣兵(ゲリラ)を処刑している凄惨な場面に遭遇しました。陸軍のトラックに乗せてこられた捕虜たちが、日本刀で首をはねられたり、胴体を突かれたりして処刑されていました。


「海軍さんも斬るか」

 しばらく見ていると、陸軍の兵隊が「海軍さんも斬ってみないかい」と言ってきたので、とんでもないと、その場から逃げました。ああやって命を奪うということは、やっている兵隊だってつらかったと思います。その時は気持ちが高ぶっているから「イヤァー」とやったでしょうが、戦友がやられたことを建前にしなければできなかったでしょうね。


 後に問題となった「南京大虐殺」というものだったかもしれませんが、私たちが南京城内に入った時には陸軍が占領していて、ほとんどの住民は逃げ出していなくなっていました。現地にいて便衣兵の処刑は見ましたが、一般人を大量に集めて処刑したといううわさは聞いたことがありませんでした。中国側が公表している30万人虐殺という数は考えにくいと思います。


 ただし、中国の便衣隊を「チャンコロ」と言って蔑視していたのは事実で、戦時中とはいえひどいことをしたと思います。

(聞き書き・松原京子)

(2012年6月9日号掲載)


=写真=連日、地上攻撃をした九五式艦上戦闘機


 
原田要さん