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07  〜長野国際親善クラブ設立〜

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 倉島が長野市長を退任後、30年余も継続してきた仕事は長野国際親善クラブでした。倉島のこのクラブ創立の動機は、彼が市長在任当時、クリアウォーター市と姉妹提携した関係を持続発展させたいことでした。


 1956(昭和31)年8月から3カ月間、倉島はアメリカ国務省の招待で米国の各市を視察しました。時の大統領・アイゼンハワーは、地域の国際化は姉妹都市提携が一番効果的だと提唱していました。倉島は早速これに賛成し、提携先として紹介された3都市を歴訪しましたが、最適なのはクリアウォーター市だと思いました。


 その理由は、同市と長野市とが観光都市であること、南部特有の人情の深いこと、日本人の居住者が少なく日本人を珍しく思っていることなどでした。


 倉島は帰国して直ちに市議会と相談してクリアウォーター市に姉妹提携を申し込みました。実現するまでには紆余曲折がありましたが、59年3月に両市の姉妹提携は実現し、交流が活発化しました。


 これが動機となって67(昭和42)年11月、長野国際親善クラブが設立され、国際親善活動が活発化のきざしを見せてきました。


 クラブは活動内容も充実し、姉妹都市関係だけでなく、中でも韓国との親善には力を入れました。それは倉島が引き揚げまでの20年間、朝鮮総督府の役人として韓国で暮らした関係で多くの友人や知人がおり、この人たちと手を結んで親善を深めたからです。


 クリアウォーター市との姉妹関係はその後、柳原市長時代も力を入れ、柳原はクリアウォーター市を2回訪ねています。そのころから教師、学生、勤労青年の交流が盛んになっていきました。


 また塚田佐市長時代の91(平成3)年秋に、市長は市会議長・教育長らと共にクリアウォーター市を訪問し、同市のレセプションの翌日には答礼レセプションを盛大に催しました。


 長野国際親善クラブはその後、92年秋には社団法人として認可され、強固な組織で再出発することになりました(参考『倉島至 私と韓国』)。

(2012年6月16日号掲載)

 11代倉島至の項おわり


=写真=クリアウォーター市を最初に訪問した時の倉島(中央)