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08 "赤い糸" 親同士で決めた結婚 挙式翌日 妻と大分へ

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 パネー号事件がもとで内地に戻った私は、大分の佐伯航空隊付となりました。


 戦争体験者だということで"貴重品"扱いされ、操縦の教官として長崎の大村航空隊を皮切りに、筑波、百里原、大分の各航空隊を渡り歩き、若い搭乗員の養成に力を注ぎました。


 中国大陸の戦火は拡大する一方で、諸外国からの干渉も強くなり、日本に資源が入りにくくなる状況下、人口増加が不可欠で「生めよ増やせよ」の国策で結婚が奨励される時代になりました。


 私と家内の精との結婚は、父親同士が近衛兵の同年だったことから、私が知らないうちに親たちが勝手に決めていました。家内の親戚は、死ぬ確率の高い危険なパイロットなので、皆で反対したそうです。


 しかし、家内は「銃後」は女性たちが守らなければいけないという教育を受けていたので、"軍国の母に"なることが最高だと覚悟していたようです。


 若き飛行士に憧れ

 それに当時、安曇野出身の飯沼正明飛行士が1937(昭和12)年4月、朝日新聞社機「神風」号を操縦し、東京-ロンドン間を94時間17分56秒で飛行するという驚異的な世界新記録を打ち立て一躍有名になり、日本中が沸き立ちました。飯沼飛行士と横綱双葉山、美男俳優の上原謙が「花の26歳」という言葉が流行するほどの人気でしたから、若き飛行士の活躍ぶりに家内も憧れていたわけです。


 これは結婚後、家内から聞いた話ですが、長野高等女学校の生徒だったころ、信濃毎日新聞に2段見出しで「原田一等兵首席で卒業 海国信州の誇り」と報じられた記事がぱっと目に入り、「銀時計なんか、なかなかもらえないのに、偉いことだね」と感じていたそうです。運命の赤い糸で結ばれていたのでしょう。


 41年1月1日、長野の実家で結婚式を挙げました。精は女学校を卒業し、長野貯金支局に勤め始めたばかりの18歳でした。軍からの休暇は3日間でしたので、大みそかに吉田駅(現北長野駅)で父親と迎えに来てくれた精と初めて対面。挙式の翌日には、列車で大分に戻らなくてはいけないので、村内の諏訪神社に詣でた後、信越線に乗り込みました。 


 18歳の妻を連れての旅は、何とも照れくさいやら、恥ずかしいやらで本当に困りました。私はひと言も口をきかなかったので、妻は東京駅に着いた時、「帰る」と言って泣き出しました。無理もありません。「じゃあ帰りなさい」と言いましたが、そんなわけにもいかず、九州へ向かいました。


 ハプニングで和む

 京都駅で後輩と偶然出会ったのが救いの神になりました。彼からもらった土産の水あめを棚の上にあげて歓談。そのうち車内が暖かくなったせいで水あめがポタポタと落ち、前にいる紳士の洋服の肩を汚してしまいました。大変申し訳ないことをしてしまい、妻と二人で平身低頭で謝りました。そんなハプニングがあってから二人の気持ちが打ち解け、やっと会話がつながるようになりました。


 大分では、飛行場のすぐそばに借家を見つけ、新居を構えました。朝、航空隊に出勤し訓練が始まります。風向きによっては自宅の方角へ飛ぶこともありました。そんな時は、家内が2階に上がってよく見ているんです。お互いの顔がはっきり見えることもありました。


 しかし、甘い新婚生活は長く続きませんでした。この年の9月、突然、零式艦上戦闘機のパイロットとして、空母「蒼龍(そうりゅう)」への乗艦命令が下りました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年6月16日号掲載)


=写真=結婚式での私と精

 
原田要さん