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09 空母「蒼龍」 〜夢に見た洋上発着 臨戦状態で一路北上〜

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 空母「蒼龍(そうりゅう)」への乗り組みを命じられた私は、まだ新婚の夢覚めやらぬ時期ではありましたが、身ごもっていた家内を長野の私の実家へ帰して赴任しました。


 これまで操縦してきた戦闘機は、初戦で「九五戦(九五式戦闘機)」、次に「九六戦」でしたので、世界にその名を轟かせた「零戦」に乗れるうれしさと、これまでの厳しい訓練を通じ洋上での発着を夢見てきた私は勇んで赴き、第5分隊の小隊長に任ぜられました。


 「零戦」という名前は、採用された1940(昭和15)年が皇国暦2600年に当たることから、末尾の零を取って名付けられました。ハワイの真珠湾攻撃の3カ月前のことです。

零戦で猛訓練


 初めて乗った「零戦」は、舵の利きが良く、操縦が滑らかでスピードも速く、「九五戦」や「九六戦」に比べて前方が小さいので視界も広くなり、これはいい飛行機だと思いました。戦闘機での訓練は毎日やってきたので、操縦もすぐに慣れました。


 戦闘機は「空戦」といって敵機を墜撃するのが一番の役目ですから、毎日、空戦訓練や射撃訓練を行い、「捻り込み」といって、相手に後ろに付かれた時、なるべく小さく宙返りをして、逆に相手の後ろに付く秘技もマスターしました。


 いろいろな母艦を使っての発艦と着艦の訓練では、滑走路から真っすぐ上がって、第1旋回から4回、それぞれ90度ずつ旋回して元の離陸した場所に降りてくるわけですが、夜、真っ暗な中を甲板上のランプを頼りに着艦するのは怖かったですね。艦尾に激突したり、甲板をオーバーして海に落ちたり、たくさんの犠牲者が出ました。


心安らぐ妻の手紙

 猛訓練に明け暮れる日々の中で、ほっと心が安らぐのは、家内から届く手紙を読む時でした。


 農家に嫁いだものの、田植えやリンゴの袋掛けさえできない長男の嫁は、封建的な時代のことですから、随分つらい思いをしたでしょう。寂しかったと思います。でも家内は、私を心配させまいと、そんなことは一行も書いてきませんでした。


 手紙は1日置きくらいに来ました。ある時、1日に2度も届いたので、仲間から「朝刊が来た」、「夕刊が来た」と、からかわれたものです。


 大分の基地航空隊で約1カ月の猛訓練を終えた我々は、瀬戸内海の桂島に停泊している「蒼龍」を目指して飛び立ちました。初めて着艦して驚きました。すでに臨戦状態になっており、防寒装備が設置されていたのです。当時、戦争回避のため、来栖三郎駐米特命全権大使が日米交渉に当たっている最中でした。しかし東條英機内閣での陸海軍は、すでに12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃の準備を本格化していたのです。


真珠湾に向け集結

 1941年11月中旬、我々は行き先も告げられず出港。一路北上し、ある朝、目を覚まし甲板に上がると、何と真っ白い雪を被った山々に囲まれた拓捉島の単冠湾だったのです。湾内を見渡すと「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」と6隻の空母に、戦艦2隻、巡洋艦3隻など合計30隻がびっしり集結していました。

 真珠湾攻撃の話を聞いたのは、飛行長の橋本中佐が「赤城」での打ち合わせから帰って来てからでした。私は「いよいよアメリカと一戦交えるのか。思い切って働いてやろう」と決心しました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年8月23日号掲載)


=写真=零戦で訓練したころ(1941年)

 
原田要さん