板間より別れて後の悲しきは誰に語りて月影を見ん 虎御前
厭ふとも人は忘れじ我とても死しての後も忘るべきかは 曽我十郎祐成(すけなり)
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愛し合う二人の仲が今まさに、引き裂かれる寸前の場面だ。
短い夜が明けようとしている。二人にとって朝の訪れは、そのまま今生の別れだ。泣き、もだえながら一夜を過ごした。そして歌を交わす。
〈虎御前〉あなたと別れた後の悲しさを誰に語れば、板葺き屋根から漏れる月の光を誰と見れば、いいのでしょうか。
〈曽我十郎祐成〉私が君を嫌っていても...(いや、こんなに恋しがっているのだから)、君は私を忘れまい。私もまた死んだ後も、君を忘れるはずがない。
今から820年前、1192(建久3)年、源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた。翌93年5月、頼朝は富士の裾野で大規模な狩りをやってみせる。
狩り場を囲む多数の勢子に追い立てられた鹿やイノシシを、馬にまたがった武士たちが弓矢で仕留めていく。いわば武勇を試す軍事訓練でもあった。
そこに乗じて十郎祐成、五郎時致(ときむね)の曽我兄弟が、長らく狙ってきた父親の敵、頼朝側近の御家人・工藤祐経(すけつね)を討つ。兄はその場で切り殺され、弟は捕まって頼朝の尋問を受けたうえ、鈍刀で首を切り落とされた。
貴族の世から武士の世へ、変転していくさなかである。武士同士も領地や跡継ぎを巡り、抗争を繰り返していた。
荒々しく、たくましい関東武士の姿を生き生きと語り伝える曽我物語は、同時に十郎と遊女虎御前の悲恋が、哀れにも美しく色を添える。
命懸けの敵討ちを決意したからには、世間並みの結婚は望めない。あきらめていた十郎が20歳を迎えた時、出会ったのが絶世の美人、大磯の虎御前、17歳だ。

十郎は山の峠道をせっせと大磯へ通い出した。やがて二人は互いに掛け替えのない存在として愛し合う。たちまち2年が過ぎ、敵討ちの絶好の機会が訪れた。
5歳と3歳で父親を殺された兄弟だ。以来、親の敵を討つことに執念を燃やしてきた。ようやくその本懐を遂げられる喜びは、半面、恋人と永遠に別れる悲劇だ。
運命の旧暦5月28日である。虎御前は19歳の若さで出家し、十郎と五郎兄弟の霊を弔う旅に出る。立ち寄った先の一つが善光寺だ。
ここで2年ほどこもり、供養三昧の日々を送ったと、曽我物語は最終場面で虎御前の愛の深さをたたえる。

門前の中央通りから東へ150メートルほど、武井神社の玉垣沿いに小路をたどると、二つ重ね合わせた石がある。「虎が塚」の名で親しまれてきた=写真。遺髪などが埋められていると伝えられる。
同じように「虎が雨」といえば、あの5月28日に降る雨を指す。泣き暮らす虎御前の涙雨というわけだ。新暦では6月の下旬、ちょうど梅雨のころに当たる。
しっとり雨にぬれて和らいだ石の肌を見ていれば、確かに深い悲哀がこめられているような気がする。女人にも門を開いてきた善光寺周辺の逸話にふさわしい。
〔日本三大敵討ち〕曽我兄弟のほか、江戸時代の剣術家・荒木又右衛門が義弟を助けた伊賀越えの敵討ち、赤穂浪士が主君の敵を討つ「忠臣蔵」のことをいう。
(2012年6月9日号掲載)