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138 玉泉寺 〜京の義仲祈願寺にちなむ

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 信州人で初めて天下を取ったのは、「旭将軍」と呼ばれた木曽義仲(1154--84)だ。

 「オレの先祖は義仲に従い京に上ったが、敗れて帰郷した...」という家系は信濃に少なくない。あまり広言されていないのは、歴史上は負け組で残党だからのようだ。氏姓・家伝を秘め、山村の谷あいに隠れて生きてきたケースが多い。


 1184(寿永3=元暦元)年、京都にあった義仲の祈願寺「玉泉寺」が鎌倉軍(源頼朝)によって焼かれた時、火中から守り本尊の観音像を救い出したのが、信濃武士・仁科氏配下の竹村兵部だった。


 近江粟津で義仲戦死の後、軍団の武将たちは各地へ散り散りに逃れた。竹村兵部は何とか仁科氏の本拠地・安曇の萩野山にたどりつき、主君の菩提を弔い、ささやかな観音堂を建てた。


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 それから800年以上もの有為転変の歴史はつまびらかにし難い。戦乱、飢饉、山崩れ...。観音堂も漂流して、現在地の「宝秘山玉泉寺」に落ち着いたのは近世のことだ。寺名は京都で焼き打ちされた義仲の祈願寺にちなんでいる。


 第2次大戦後の窮乏の年、檀家の一軒という小布施の夫婦が「家業の不運続きに思いあまって、先祖に打開を祈願したい」と参拝にやって来た。偶然にも本堂脇段でボロボロの観音像を見つけ、「何かの縁だろう」と背負って持ち帰り、飯山の仏像業者に頼んで修復、あらためて奉納したのが秘宝の観音像=写真下=という。


 この夫婦は小布施駅前の「角屋」という店で栗菓子を商っていた竹村さん。「竹風堂」の竹村家も先代まで檀家だったという。


 400軒余の檀家の1割近くは竹村姓だ。兵部の直系は地元、山穂刈の竹村宗家=玉泉寺総代で、長野市街に通勤する由美さんが父親から譲られた史料や歴史書を研究している。


 加えて住職の笠原憲正さんは元体育教師で、木曽高校(現木曽青峰高校)校長などを歴任し、モーレツな「義仲仕掛け人」を自認。昨年10月には信州新町で「全国義仲サミット」(義仲・巴全国連携大会)を主催している。


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 寺のある地籍は信州新町だが、萩野高原は古来から安曇の豪族・仁科氏の支配地だ。国道19号から山道を曲折しながらたどり、谷あいに少し下ると安曇野特有の2階建ての山門が迎えてくれる。


 観音像は柔和な姿で、義仲旗揚げの地として由緒深い木曽町日義の徳音寺にもそっくりの観音像がある。

(2012年6月2日号)


写真:観音堂で5月5日に営まれた義仲の法要

 
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