
吉田の町の様相がガラリと変わりそうだ。若槻大通りが南進し、北長野通りの「本久デイツー」の東側につながる。
「交通の要衝だが、中心の顔のない町が近代化する。開通はいつごろ?」と住民の期待は大きい。ところが「予定の2016年度から遅れるのは必至。あと5、6年...。予算の都合で流動的」と県長野建設事務所の胡桃敏成調査係長は口を濁す。
これまで吉田町の中心は善敬寺(ぜんきょうじ)の周辺だった。北国街道(相ノ木通り)が門前で北に折れ、傍らの松代藩口留番所(ミニ関所)では「この荷物はなんじゃ。どこへ運ぶ?」などと役人が監視した。ここを通って北部の農村から野菜、穀類や繭、上越からは塩干魚が善光寺町に入った。
善敬寺は100メートル近い参道から瀟洒な太鼓楼をくぐると、9900平方メートル(3000坪)という広大な境内に本堂、御影堂、庫裏が立ち並ぶ。篠ノ井塩崎と東町の康楽寺(こうらくじ)と縁が深く、本堂は15間(約27メートル)×15間の威風を誇る。
創建は南北朝時代の1300年代にさかのぼる浄土真宗の大寺だ。庫裏の横ではモダンな吉田保育園を経営。卒園児も1万人以上に。檀家でなくとも「私、卒園生なの...」という人は多い。

英明で知られた第8代松代藩主・真田幸貫が描いた親鸞聖人御影を寺宝とする=写真下。3億円余を投じたという御影堂の改築が来年、完成披露の予定だ。
檀家1700軒という墓地も広大だ。風雪を経た数百の墓石群の中では、大きな自然石を立てた筆塚8基が見ものだ。
「数学や国学の寺子屋の師匠を追慕したもので、江戸時代から庶民の勉学が隆盛だった証しです。俳諧の大宗匠・茂呂何丸(もろなにまる)の上京のお世話もしました。吉田小学校はこの寺で創設され、今日でも重要な職員会議は寺に参集して由緒と伝統をしのぶんです」。海野英順(うんのえいじゅん)住職夫妻の話だ。海野姓は真田一族を支えた武将がルーツ。裕福な檀家が多いことでも知られている。

「この町は浅川の氾らん原ですから、洪水の後、稲を作れば肥料いらずで豊作の連続だったはず。非常にストックが豊かな町です。道路工事では大層な遺跡やお宝が発見されるかもしれない」というのが安曇野の豪農出身の胡桃さんの見方だ。
工事では旧北国街道が分断され、由緒ある吉田の町の小路が消えていくのが惜しまれる。
(2012年6月16日号掲載)
=写真=威風を誇る本堂と境内