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31 須立之城(篠ノ井) 〜1400年代に築城 雑木に埋もれた城跡〜

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 長野市有旅(うたび)は川中島合戦のとき、武田軍2万の軍勢が布陣した場所である。陣所となった茶臼山を横目に有旅の峠路を下ると、間もなく山布施集落だ。集落内に布制神社があり、その脇に地元の老人クラブが立てた「須立之城」の案内標識があった。「山布施城」「簾立城」の別名もあるというが、地元では「須立之城」という。道幅が狭いので、神社から徒歩で城跡に向かう。


 田地を過ぎると荒廃した畑地が広がり、車道の終わった所が城跡で所要時間は20分程度。山布施集落の北西の丘陵の頂部に築城したもので、軽自動車であれば城跡まで通ずる。


 資料によると、本郭に続き、二の郭、三の郭、堀切が数条記載されているが、城跡一帯が雑木の繁茂により詳細に確認することはできない。整地された本郭のみが山城の名残をとどめている。


 築城は1400年代中頃の文明年間で、築城者は布施忠頼と伝えられている。布施氏は東信地方で栄えた望月氏系といわれ、応仁年間に更級地方に勢力を伸ばし、山布施に居住したという。


 後に忠頼の後継をめぐって長男・正直と忠頼の弟・直長との間で内紛があり、長男は上尾に、弟は有旅の2派に分かれたが、布施氏は忠頼より6代にわたってこの地を支配した。


 やがて須立之城は上尾城の支城となり、平林氏の支配となる。平林氏は武田氏に就いていたが、武田氏滅亡後は上杉氏の家臣として会津へ随行し、白河小峯城主となった。平林氏が上尾から去ったことで須立之城は廃城となる。


 この城は犀川の笹平ダムの直上に当たり、雑木の繁茂がなければ眼下に笹平城、戸屋城など七二会方面への眺望がよく、犀川筋の見通しがよい立地にある。戦国期を通じて後世に伝えられるような戦いの記述は見られず、長い間、山間で埋もれてきた山城といえる。

(2012年6月23日号掲載)


=写真=須立之城の縄張図


 
続・山城紀行